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Urraca Primitiva『博物館の聖遺物』

翻訳校正:島田荘司

人類の目にとって唯一不変であり続けてきたものは、星座である。最初のホモ・サピエンスが頭を上げてそれらを観察して以来、夜空に凍りついたままだ。我々の種は進化した。環境は技術の進歩によって変化した。動物の種は絶滅し、あるいは誕生し、その特徴を変えてきた。だが、北極星は常にそこにあり、何千年も前から旅人が道を見つけ、海を航海するのを助けてきた。私たちは、自分の都合で川や山の形を変えるようには、まだ地球の外にあるものを変えることはできない。大空( firmamento)は、私たちがまだ進歩の祭壇に捧げることができていない、唯一の聖域なのだ。

少なくとも、京都国立博物館のチーフ・コンサベーターであり、過去に深く根ざした男、古谷健二はそう考えていた。振り返ってみれば、不動の星々への愛こそが、クラスメートだった瀬奈に興味を持たせた理由だったのかもしれない。彼女は今や彼の妻であり、独特な一族の末裔だった。しかし、多くの者は彼の宇宙観に異を唱えるだろう。健二の宇宙哲学は誤解から始まっていたのだろうか? やがて彼はもう一人の星空の愛好家に出会い、二人のビジョンは衝突することになる。

休憩を終えた健二は、平成知新館へと戻った。平成知新館とは、京都国立博物館の、平安時代から江戸時代にかけての収蔵品を別個保管、平常展示するために二〇一四年に開館した施設である。入口で名前と正確な時刻を記入し、コントロールセンターに報告した。受付では警備員たちが、登録を済ませた彼を麻雀に誘った。彼はその申し出を断った。彼は夜の博物館の雰囲気が大好きだったが、それを楽しむ機会はあまりなかった。労働者が特定の作業を完了させるために残ることができるのは、ごく稀な機会に限られていた。 その夜、彼らは多くの展示の仕上げを行っていた。常設コレクションが新しい収蔵品や数ヶ月前 に展示された作品と入れ替わるためだ。仕事は展示品の移動だけではない。キャプションやポスターの情報を更新し、作品の配置を計画し、時にはショーケースや展示台を変更する必要もあった。

時刻は午前3時34分。平成知新館の内部には、健二、副コンサベーターの銭口守男、美術部の八井沢恵美子、メンテナンス責任者の請名於羽(うけな おは)、そして5人の警備員がいた。警備員のうち3人は、アラームに備えて1階の受付で麻雀をしており、4人目は2階の絵巻物展示室で守男 と恵美子に付き添っていた。そして5人目、最後の警備員は……。

その警備員は、午前2時16分に仲間たちへ「ルーチンの見回りに行く」と伝えたきり、まだ戻っていなかった。

健二の足は、吸い寄せられるように1階の特別展示室へと向かった。「特別展:日本の古代天文学」。彼は静寂の中に響く自分の靴音に聞き入った。外からは強い風が窓を軋ませ、まるで怪物の爪が中に入ろうときっさきをガラスに押し付けているかのようだった。夜の散歩は、厳しいセキュリティ規則のために滅多にできないことだったが、開館時間中には決して味わえない感覚に満ちていた。誰もが理解できるわけではない、廃墟のような建物の静謐な空気に浸ることができる自分を、彼は特権的だと感じていた。

角を曲がると、特別展示室の内部から放たれた一筋の光が、向かいにある書道展示室の壁に当たっているのを見つけた。高さからして、懐中電灯が床に落ちているようだった。しかし、彼の項(うなじ)を粟立たせたのは、その光がまったく動いていないことだった。懐中電灯は点灯したまま落ちており、持ち主はそれを拾おうともしていない。懐中電灯の持ち主が、もはや動けない状態にあるということ以外、どんな説明ができるだろうか。

彼は室内に滑り込んだ。そこには、床に倒れて動かないシルエットがあった。

「まただ。あの時と同じだ」。気づいた時には、すでに血を踏んでいた。衝撃で健二はつまずき、血溜まりの中に尻餅をついた。手のひらに、生温かい感触が伝わった。

犠牲者の顔には見覚えがあったが、名前を思い出すことができなかった。

「なぜ名前を思い出せないんだ? 少し前に紹介されたばかりなのに」。

健二は大学時代、その驚異的な記憶力で有名だった。博物館でも、帳簿や資料を確認することなく仲間の質問にすべて答え、皆の信頼と愛情を得ていた。しかし時折、彼の脳は特定の単純なデータを保持するのに苦労することがあった。

床に横たわる犠牲者の傍らには、喉を切り裂くのに使われた鋭利なナイフが落ちていた。大きく開いた喉の傷口から、大量の血が床に広がっていた。そして彼らの頭上、 まるでその不気味な光景を保護するかのように、妻の瀬奈の一族が所有していた「天蓋(てんがい)」が広がっていた。

警察の捜査が完了するまで、博物館は閉鎖された。健二のような単調な日々を愛する者にとって、それは過酷な日々だった。仕事を奪われただけでなく(彼にとって仕事こそが生きる唯一の理由だった)、警察は彼を執拗に追い詰めた。

取り調べと現場検証が繰り返された。心の底では、自分が唯一の容疑者である理由は理解していた。彼にしか犯行は不可能だったからだ。

状況は以下の通りだった。

午前2時16分:犠牲者の中山拓(なかやま たく)が仲間にルーチンの見回りを告げる。カメラは 彼が階段で3階へ向かう姿を捉えている。各展示室の確認を終え、2階へ下り、その後1階へ向かっ た。各展示室に滞在した時間は1分から5分程度。

午前3時20分:犠牲者が特別展示室に入る。その瞬間、室内の監視カメラが原因不明の停止を起こし、殺害の瞬間を捉えることができなくなった。しかし、停止したのはこのカメラだけだった。 他のカメラ(通路のカメラを含む)は稼働していたため、重要な事実が判明した。健二が到着するまで、誰も特別展示室に出入りしていなかったのだ。

午前3時28分:健二が平成知新館に入る。博物館の外での彼の動きは屋外カメラに記録されていた。

午前3時43分:健二が特別展示室に入る。

午前3時50分:健二が血まみれで特別展示室から出てくる。

なぜ7分間もかかったのか? 彼の供述によれば、死体の衝撃的な光景と血溜まりへの転倒により、パニックに陥って見当識を失っていたという。

午前3時52分:2人の警備員が現場に到着。健二が出てから警備員が到着するまでの2分間、誰も特別展示室に出入りしていないことが確認された。後に警察の記録により、カメラが停止している間(午前4時28分に復旧)に室内に隠れていた人物もいなかったことが証明された。

警察が来て、長い取り調べがなされ、古谷健二は不愉快な質問を散々浴びせられた。しかし犠牲者に対する動機もなく、何らの証明もなされず、逃亡の恐れはないと判断されて、拘束はされなかった。しかし容疑者とみなされていることは明らかだった。

長い散歩だけが、彼に残された唯一の慰めだった。星空の下を歩くことで、自分の境遇を忘れ、絶望的な自宅から逃れることができた。そこには、精神的に病んでしまい、結婚した時とは別人のようになってしまった妻と、不快な看護師が待っていた。自由の身であることは保証されていたが、刑事につきまとわれているだろうことは察しがついた。 だが彼が、遠くから邪魔せずに見守ってくれるなら、それでいいとさえ健二は思っていた。

それは大谷本廟の外で起こった。不良のような風体の男二人が、暗い隅で若い女性を脅していた。通りは無人だった。ゴシック様式の服とメイクをしたその女性は、階段にすわり込んだまま麻痺したように動けずにいた。健二は迷わず行動した。自分を見張っている刑事が助けてくれるだろうなどとは考えもしなかった。それは反射的な行動であり、どんな状況でも同じようにしただろう。

男たちは逃げ去ったが、一人が女性のものと思われる小銭入れを掴んでいた。寺のすぐ側で、これほど卑劣な行為をするとは!

「大丈夫ですか?」

女性は彼の方を向いたが、問いかけが聞こえていないようだった。顔がこちらを見ていない。しかし、華麗な横顔だった。健二は彼女がまだショック状態にあるのだと判断した。

「あの街灯の下へ行きましょう」と、ついに彼女が言った。

怪訝に思いながらも、健二は彼女の願いにしたがった。

「今言ったことを、もう一度言って」

と女性は言った。

「大丈夫ですか?」

「ええ、ありがとう」

「盗まれてしまいましたね」

「お金はほとんど入っていなかったわ。ただ、あの小銭入れ、すごく可愛かったから、それだけが残念」

彼女は黒い口紅を塗った唇で微笑んだ。

「私は一馬華代(いちうま はなよ)」

「古谷健二です」

「助けてくれてありがとう」

「誰でもそうしたでしょう。駅まで送りましょう」

「誰でもではないわ、あなたは勇敢」

華代は、たとえ遠回りになっても、より明るい道を選んで彼を案内した。まだ彼を完全に信用していないのだろうか? 彼女は頭を巡らせ、彼をじっと見つめながら歩いた。生え際にある見栄えの悪い傷跡が目に入ったが、それが彼女の容姿を損なうことはなかった。健二は、それが彼女に個性を与えていると感じた。

「急いでいたんじゃない? 付き添わなくてもいいのよ」

「散歩中だったんです」

「健康的な習慣ね。私は大学へ望遠鏡を覗きに行くところだったの」

「星を見るのが好きなんですか?」

健二は、この出会いが偶然だとは信じられなかった。もちろん偶然の可能性はあったが、ロマンチストというものは、十分な知性を持っていても、統計学の基本概念など拒むものだ。

「私の人生そのものね」

最初から綺麗な人だと思っていたが、時間が経つごとにその美しさは増していくように感じられた。健二は伝統的な道徳感を持つ男だったが、ためらうことなく彼女の名を呼び、楽しい会話に没頭した。たとえ束の間の瞬間であっても、少しばかりの夢を見る権利はあるはずだ。あの惨劇以来、彼の妻は魂の抜けたマネキンのようになってしまった。彼に何ができただろうか。彼は彼女に自分の仕事のこと、そして博物館での事件のことを話した。彼女になら、何でも話せる気がした。

「興味深い問題ね」

と華代は熟考した。

「監視カメラのおかげで、あなた以外の誰も、特別展示室に入ることはできなかった。でも可能性はほかにもある。ミステリー小説にあるような、遠隔で犠牲者の行動に合わせて殺害装置を起動させる『罠』を犯人が仕掛けることも不可能なはず。なぜなら、室内のカメラは事件の夜に切断されるまで、ずっと稼働していたから。犯人は、カメラに映らずに事前に罠を仕掛けることはできなかったはず。でも、その装置が寄贈される前から展示品の一つに仕込まれていたなら。それなら犯人は博物館に入る必要さえない。……まあ、それは不可能だと推測するけれど」

「不可能です」

と健二は即座に同意した。

「すべての寄贈品や購入品は、受け取り次第、専門家によって入念に検査されます。罠や改造があれば発見されたはずです。犠牲者を殺害した あのナイフも見つかったはずだ」

「犠牲者と一緒に犯人が現場にいたことは不可能。遠くから殺害装置で殺すことも不可能。となると、やはりあなたしか犯人はありえない、ということになるわね」

と彼女は整理した。

「警察もそう考えています」

「恐れないで。あなたじゃないわ」

華代は思いがけない優しさで、健二の腕を握った。この感触と彼女の励ましの言葉が、その日を彼の人生で最も幸せな日の一つにした。

彼らは駅に到着した。

「君は、聞こえないんだね」

と健二は言った。 華代は眉を上げた。

「街灯の下で質問を繰り返させたのは、ぼくの唇を読むためだ。だから君は、ぼくの顔がよく見えるように明るい場所を選んで歩いた。あの暗い場所で男たちが君に話しかけた時、何を言っているのか理解ができなくて、それで不安になったんだね」

「いいわね」

地下鉄の入り口で、別れの微笑みを投げかけながら華代は言った。

「そういう男は好きよ。鋭くて、冷淡で」

健二は星空を見上げながら家路についた。幸せで、そして少し悲しかった。

その夜、現場検証のために健二は博物館に召集された。数日ぶりの訪問だったが、つらい状況とはいえ、自分の「領地」に戻れるのは嬉しかった。そして、そこには驚きが待っていた。正面入り口には、事件の夜に居合わせた全員を警護する警官グループがいた。4人の夜間警備員、銭口守男、八井沢恵美子、そして請名於羽。しかし、もう一人、人物がいた。あの日以来会っていなかった華代が、さらに豪華なゴシックドレスを着て現れたのだ。健二は驚いた。彼の驚きに応えるように、華代はウインクした。

「私は一馬華代。京都大学物理学、天文学科の教授です」

彼女は警部にうながされて自己紹介をした。

「博物館が一日も早く再開できるよう、お手伝いをさせていただきます」

「彼女はいくつもの事件を解決に導いてくれました」

と警部が補足した。

「二日前、署長にこの事件について問い合わせの電話があったんだ」

それは事実だった。華代は当局を悩ませていたいくつかの謎に光を当てていた。警部が言わなかった情報は、当初、警察署長がほぼ解決したと思われる事件への華代の関与に難色を示していたことだ。しかし、その拒絶は長くは続かなかった。彼女は署長のお気に入りの姪であり、彼は彼女の望むことをすべて叶えてしまう人だったらしい。

「まずは、事件当夜の各人の動きを記録することから始めましょう」

恵美子は平成知新館にいた4時間の間、2階から動かなかった。午前2時40分から死体が発見されるまで、大半の時間を絵巻物展示室で過ごした。彼女がカメラの視界から消えることは一度もなかった。

守男は、恵美子にずっと付き添っていた。ただし、午前3時24分から3時35分までの7分間だけ、 同階のトイレに行くために中座した。彼が絵巻物室に戻った時、入った時に着ていた黒いジャケットは脱いでおり、ワイシャツ姿だった。取り調べに対し、彼は吐瀉物でジャケットを汚したため、洗面所で洗い、乾かすためにそこに置いてきたと明かした。夕食にあたったようで、体調を崩していたのだ。カメラは彼のトイレへの出入りを記録していたが、内部で何をしていたかは確認できない。ジャケットは詳細な分析にかけられたが、徹底的に洗浄されていたため、決定的な証拠は見つからなかった。

請名於羽は、温度・湿度・二酸化炭素濃度を制御するパネルの、トラブルを解決するためにその夜入館していた。午前2時48分から、健二が休憩から戻る前の3時22分まで、彼女はパネルを操作するために書道展示室に留まっていた。

彼女の証言によれば、ヘッドホンで音楽を聴いていたため、向かいの部屋に犠牲者が到着した音さえ聞こえなかったという。作業終了後、彼女は1階のトイレに入り、午前3時40分まで水洗タンクの修理をしていた。このトイレでの18分間だけが、彼女がカメラの死角にいた唯一の時間だった。彼女は、健二がアラームを鳴らしたのとちょうど同じ時刻に建物を出た。

「中に入りましょう」

と華代が宣言した。

捜査は、現場の向かいにある書道展示室、同階のトイレ、現場の真上にある絵巻物展示室、そして守男が行った2階のトイレに集中した。恵美子や守男が、上の階から何らかの仕掛けを作動させたり、床を操作したりして殺害することは可能だったのか? 守男がトイレからその離れ業を成し遂げることはできたのか? 於羽が書道室や1階トイレから? 彼女が修理していたコントロールパネルが何らかのトリックの一部だったのか? これらは健二があの日以来ずっと自問し続けてきた 問いであり、今、ゴスロリ探偵こと華代教授が答えを出そうとしていた。

容疑者たちは質問に答えた後、帰宅を許された。残ったのは健二だけだった。警察官たちが散らばり、監視と手伝いのために一人が残るだけになると、華代と健二はやっと落ち着いて話すことができた。

彼らは再び犯行現場へと戻った。華代は問題の展示品を、まるで一人の来場者のように楽しみながら注意深く観察した。

「この手回しハンドルは、これを開くためのもの?」

彼女が指したのは、犠牲者がその下で亡くなっていた見事な「天蓋(てんがい)」だった。機能のない歯車や幻想的な装飾が施され、内側からは無数の紐が垂れ下がっており、まるで異世界の品のように見えた。

華代は解説パネルを読んでいた。

「京都の古い氏族が、天体にまつわる独自の宗教を発展させた。彼らの宗教は、世間と隔絶され、科学の進歩とは無縁のまま、最近まで維持されていた。彼らの信じるところでは、人間の目には見えない『隠された星座』が存在し、特定の条件下でのみ観測できるという。この星座は、宇宙に住まう神そのものである。信仰を捧げる者には願いを叶えるが、信仰を捨てた者には災いをもたらす。この神を特定するための儀式では、現代の後継者が全裸になり、供物の血を飲まなければならない。その供物の死は、代々口伝で伝えられてきた特定の日時に、この天蓋の下で起こらなければならない。現在、その日時は不明となっている……」

「普段は折りたたんで保管していますが、展示が始まると、来場者が鑑賞できるように開くんです」

メンテナンス責任者の請名於羽(うけな おは)が説明した。

「失礼……」

彼女は解説にある通り、広げる方向へとハンドルを回した。

「動かないわ」

健二も確認のために近づいた。予感した通り、メカニズムに挟まった金属の破片がハンドルの回転を妨げていた。

「はじめてじゃありません」

「以前にもあったの?」

「仕掛けが複雑で古く、機能のない美的装飾が多すぎるんです。過去にも装飾の金属片が脱落して、歯車の動きを邪魔したことがありました」

健二は頷き、説明する。

「この天蓋を倉庫から出して展示するのは、これで3回目です。特別展の時だけですから。2回目の時も、ハンドルを回しても開かなかったことがありました」

「金属片のせいでね。でもそれを取り除いた後は、問題なく開いたわ」

於羽が言う。

「つまり、2回目の展示の準備で開けようとした時、すでに何かが詰まっていた。展示が終わった後は問題なく閉めることができた。その後、厳重に管理された倉庫に保管されていた。今回の3回 目の展示のために倉庫から出し、そして今、私が開けようとしたら、また同じような障害物がそれを阻んでいる……」

と華代は繰り返した。

健二はハンドルを回しながら頷いた。それは、この品を知らない者にとっては圧倒的な光景だった。一点の妥協もなく再現された夜空。そこには一つとして欠けることなく星々が配置され、それらはすべて精巧に埋め込まれた金の粒だった。その一粒一粒を合わせれば、この天蓋の金銭的価値は計り知れない。大空に輝く星の数と同じくらいに。

華代はその遺物を数分間観察していたが、やがて手を後ろに組んで室内を歩き回り始めた。彼女が考えごとをする時の癖だ。彼女が今聞いた話の中に、疑わしい点があったのは明らかだった。

「この天蓋は、展示されない間、ずっと倉庫に保管されていたのね?」

「最初に展示されたのは、ぼくが博物館に勤めて3年目の時でした。大学を卒業したばかりの頃です。2回目はその2年後でした」

健二が言う。

「いくつかテストをさせてもらうわ」

彼女は断固として言う。

「警察署長に連絡して、必要な手続きを取らせる。操作の間、修復士が立ち会っても構わないわ」

二人はカフェにすわった。健二は食欲がなく、有名なブレンドコーヒーだけを頼んだ。華代はスイーツを食べていた。探偵が尋問の再開を決めるまで、穏やかな時間が流れた。

「あなたの奥様は、この天蓋を作った一族の唯一の生き残りなのね」

「ぼくのことを調べたようですね」

健二は少し不機嫌になって言った。彼女が協力してくれているのは彼を助けるためだということを忘れていた。

「この不手際だらけの館で働くぼくのことを」

「天蓋の一部が血で汚れてしまった。寄贈時の契約を確認したいの。もし博物館が管理を怠り、品物に何らかの損傷を与えた場合、元の所有者に返還するという条項は契約にあったかしら?」

「書類にはそう記されています。でも、妻は返還を望んでいません。壊れようが燃えようが、彼女にはどうでもいいことなんです。最初はゴミ捨て場に捨てようとしていたくらいですから。博物館に寄贈するよう勧めたのはぼくです」

「事件の後、彼女はすぐに返還を拒否したの?」

「はい。昨日も、必要ないと言っていました」

「なるほど。彼女は先祖の非科学的な宗教を信じていないのね」

健二は頷いた。

「妻は、家から一歩も出ず、一日中ベッドで過ごしています。看護師が、彼女が長い間そこから動いていないことを証明できます。実質的に、ぼくは独身のようなものです。以前、彼女がまだ普通の女性だった頃は、確かに一族のことを嫌い、勉強のために村を出ました。大学を卒業した後は、高校の化学教師として働いていました」

「彼女がその病、というか今の状態になったのは、娘さんに起きたことが原因ね?」

健二はカップの底を見つめた。脳裏には、娘が博物館に会いに来てくれた時の記憶が鮮明に残っていた。彼女はいつも同じ場所で彼を待ち、幼い子供特有の覚束ない足取りで駆け寄ってきた。週末には庭を散歩しながら、植物や木の名前を教えてやった。まるで昨日のことのように思い出せる。博物館のすぐ外の地面で死んでいた彼女の姿を。外壁の改修工事中の事故で、頭を潰されて……。

「なぜ、娘さんが亡くなった場所で働き続けているの?」

「この博物館には、愛する場所がそうであるように、悪い思い出も良い思い出もあります。自分の家で不幸があったからといって、その思い出という理由だけで家を捨てたりはしないでしょう。もし興味があるなら言いますが、娘はぼくがここで働いていることをとても誇りに思っていたんです。一緒に館内を歩くのが大好きでした。ぼくたちを結びつけていた場所を捨てることで、彼女を失望させるわけにはいかないんです」

「そんなふうに考えたことはなかったわ」

「この尋問は、ぼくが怒りに任せて口にした虚しい感想のせいですか? 警備の不手際のせいで娘が立ち入り禁止区域に入ってしまったから。あの警備員の死はぼくの復讐だと言いたいんですか?」

「いいえ。私は可能な限りのデータを収集している段階なの。私はそういうやり方なのよ」

「ぼくを助けるために解決しようとしているのだと思っていた」

健二はすすり泣いた。

「娘の話がこの事件に関係してくるのは、ぼくが犯人である場合だけだ。結局のところ、ぼくだけが犯行を可能だったんだから。……怒っているんじゃない、ただ、失望したんだ」

それが、数日の間に交わした最後の言葉だった。健二は失意のうちに帰宅した。始まったばかりの二人の関係が、完全に消え去ってしまったと信じて。彼は自分の正しさを確信していたが、謝罪するにはプライドが高すぎた。

それは夜の散歩の途中に起きた。屋台で、華代と容疑者の一人である二枚目の守男が、ビールを飲みながら楽しそうに話しているのを見つけたのだ。怒りの波が胃から脳へと、溶けた鉄のように湧き上がった。いつからあの二人は知り合いだったのか? 華代は何か計画のために自分を利用したのか? 健二はルーチンを大切にする男であり、散歩のルートはいつもほぼ同じだった。彼が通りかかるように、偽の強盗事件を仕組むことなど簡単だったはずだ。

……もっともその場合、守男と華代は彼の散歩ルートに「ない」場所で食事をするべきだろう。彼に見つかること自体が計画の一部でない限り。

彼は近くの別の屋台にすわり、彼らの背中を観察しながら食事をした。守男が立ち去った後も、彼女は残ってビールを飲んでいた。健二はしばらく次の行動を考え、結局、彼女に声をかけずに立ち去ることにした。

華代の声が、彼が背を向けた瞬間に響いた。

「どうして気づいたんですか?」

近づきながら健二が聞いた。

「鏡よ。すわって。事件に進展があったわ。もちろん、今から話すことは極秘事項で、もし私が組織の人間ならクビになるような内容よ。幸い、私は組織の人間じゃないけれど」

「守男と何をしていたんですか?」

「情報を引き出していたの。嫉妬した? 私はすべての容疑者と、彼らにとって都合のいい時間に会っているのよ」

「守男は女たらしだ。単なる尋問だなんて信じられないし、彼が君を家に誘わずに帰ったとも思えない」

「彼は、人生の最愛の人に出会うまでは女たらしだったわ。同僚なのに、彼とはあまり話さないのね」

最新の情報を聞くためにすわった健二の顔は赤らんでいた。警察も彼女も、時間を無駄にはしていなかった。犠牲者と他の容疑者たちの人間関係の中に、謎を解く主要な鍵が隠されていた。

守男は、犠牲者の拓と博物館で知り合って以来、意気投合していた。彼らはよく一緒に飲み食いに出かけていた。そこへ恵美子が加わるようになった。守男と恵美子の間にはすぐに惹かれ合うものが生まれ、交際が始まった。拓もまた恵美子に惹かれていたが、彼女にその気はなかった。

重要なのは、恵美子は拓を心の底から嫌っており、彼の悪趣味な冗談や、奇妙な性格を我慢していたのは、ただ守男に気に入られたかったからだという点だ。

ある日、守男が家族の急用で先に帰らなければならなくなった際、拓と恵美子が乗った車が壁に激突した。拓は無傷だったが、恵美子は重傷を負い、その時の怪我が原因で、死ぬまで引きずることになる不自由な足を抱えることになった。

運転していた拓からは薬物もアルコールも検出されず、判決は脇見運転による事故とされた。しかし恵美子は、拓が振られた腹いせに無理心中を図ろうとしてわざと衝突させたのだと、驚くべき告発をした。証拠不十分であること、また衝突した壁が以前から事故の多い危険な場所であったことから、その主張は認められなかった。拓は恵美子に多額の賠償金を支払うよう命じられた。しかし彼女にとってそれは、不十分な罰だった。拓は仕事を失うこともなく、守男が絶交したこと以外に社会的な制裁も受けなかった。それどころか、恵美子が拓を不当に陥れるために、拒絶や心中の話を捏造したのだという噂さえ流れた。恵美子は容姿に自信のある女性だったため、足の怪我と傷跡は大きな打撃だった。一方、守男は彼女を一人にしたことに罪悪感を感じ、以前よりも献身的に彼女に尽くすようになった。その結果、かつての女たらしはついに落ち着いたのだ。

「そんな事件があったなんて、まったく知らなかった。守男が来る前から館で働いていたのに」

と健二は告白した。

「想像していたわ。あなたは過去の顔や名前、日付については驚異的な記憶力を見せるけれど、それ以降のこと……」

彼女は数秒ためらった。

「あなたの娘さんが亡くなった後の出来事は、まるで脳を滑り落ちて、定着していないみたい。…‥こんな言い方をしてごめんなさい」

「……いいんだ。君の言う通りかもしれない」

彼はビールを一口飲んだ。

「それで、その二人を重点的に調べるのか。請名於羽についてはどうなんだ?」

「見て」

華代はバッグから、光る小さなものを取り出した。

「犠牲者のポケットからこんな、安物だけど金の粒に見えるように加工された素材の破片が見つかったの。専門的に調べなければ、誰もその違いに気づかないほど精巧なものよ」

「初耳だ」

「金の分析が終わるまで伏せておきたかったの。警察の調べで、それを作ったのは於羽の祖父であることが判明したわ。顧客の注文に合わせて品を作る、非常に腕のいい職人よ。彼の一族は何世代もその仕事をしてきた。私の家にも、母が注文した素敵な桐箱があるわ。言っておくけど、そのおじいさんは京都でも名の通った人物で、完全に容疑からは外れている。孫娘に頼まれて、冗談か演劇で使う偽の金だと思って、何も疑わずに作っただけでしょう」

「於羽と犠牲者の関係は?」

「もし関係があったとしても、徹底的に隠されていたようで証拠はないわ。分かっているのは、於羽に借金があるということだけ」

彼らは飲み物を追加した。

「それで? どんな結論を導き出したの?」

と華代が尋ねた。

健二は、皿の漬物をすべて食べ終えるまで答えなかった。

「犠牲者は事故の賠償金を払うため、あるいは失踪するための資金を作る計画を立てていた。於羽に頼んで、祖父に偽の金を作らせたんだ。彼女は報酬のために、あるいは犠牲者と愛人関係にあって、一緒に逃げるために協力した。事件の夜、犠牲者は金色の星を盗み出し、代わりに偽物を置くために天蓋に近づいた。すり替えておけば、盗難が発覚するのを遅らせることができる。特別展が終わって天蓋を倉庫に戻すまで、あるいは次に倉庫から出すまで。……言うまでもなく、 室内のカメラを切ったのは犠牲者本人だ。星すべての重さは約2キログラム。なぜ金を狙ったのか? 換金が簡単だからだ。芸術作品は、コネのある常習犯でもない限り売ることは不可能だ。館長に身代金を要求して、彼がそれに応じるとかしない限りはね。しかし、金を盗み出す前に彼は殺された。だから天蓋は閉まったままだった。容疑者は……」

「……彼への復讐を望んでいた恵美子。彼女への愛と罪悪感から、彼女のほのめかし一つで殺人に及ぶ可能性のある守男。そして、もし犠牲者と共謀していたなら、金を独り占めするために彼を殺そうとしたかもしれない於羽。復讐、愛、金。古典的な3つの動機だ」

「於羽は犯人ではありえないわ」

と華代は断定した。

「少なくとも、カメラに映らずに犠牲者を殺したトリックが判明するまではね」

「なぜそう断言できる?」

「彼女なら、分け前を手に入れる前、あるいは少なくとも偽の金を回収する前に彼を殺したりはしない。当初の計画では、犠牲者が金を持ってトイレに行き、そこで於羽が受け取ることになっていたはずよ。どうやって持ち出すつもりだったかは分からないけれど。於羽にとって金よりも重要な動機があって彼を殺したのだとしたら、盗みの夜を選ぶはずがないし、ましてや彼女と犯行を結びつける証拠である祖父の偽金を、死体のポケットに残したままにはしない。つまり、於羽は犯人ではない。自分を不利にする証拠を残したまま殺すはずがないから」

「なるほど。恵美子と守男は?」

「彼らも犯人ではないわ」

健二は動揺しなかった。

「彼らも容疑者リストから外す君の根拠は何だ?」

「この犯行は監視カメラの目の前で行われた。唯一、特別展示室内だけは犠牲者自身が盗みのためにカメラを切っていたけれど。もし守男か恵美子、あるいは両方が犯人なら、カメラを利用して完璧なアリバイを作るはずよ。それが計画の一部になる。一晩中2階の絵巻物室にいたのなら、カ メラに映らずに現場に行くことはできない。

……それなら教えて。なぜ守男は、わざわざトイレに行ってジャケットを洗うなんていう、怪しまれるような行動をとったの? そんなことをすれば、犠牲者の返り血がついたのではないかと警察に疑われることは目に見えている。完璧なアリバイを作る計画があったとして、わざわざ監視のないトイレで何分も過ごして、それを台無しにする理由がある? 犯人が望むのは、むしろ最初から最後までカメラの視界に入り続け、完璧に疑いの余地をなくすことよ。もし恵美子が単独犯で、守男が計画を知らなかったのだとしたら、彼がトイレに行こうとした時に彼女が引き止めたはずだわ。もっともらしい理由をつけてね。そうすれば、守男にさらに完璧なアリバイを与えることができたでしょうに」

「……なるほど、筋は通っている」

と健二は認めた。

「だが、そうなると、犯人はぼくということになる」

「いいえ、あなたも犯人ではないわ。これは理屈では説明できないけれど、とにかくそう信じている。それにトリックが判明すれば、今の推論も変わるかもしれない。トリックの性質上、於羽があのような行動をとるしかなかったのかもしれないし、守男のトイレ行きがトリックの起動に不可欠だったのかもしれない。カメラに映らずに特別展示室に向かうことで、ジャケットを洗ったとしても十分な証拠にはならないと踏んでいたのかも……」

「やあ、奇遇だね」

背後から声がした。

20代後半の、身なりのいい魅力的な男だった。路地の中ほど、光の届かない場所から華代に挨拶をしていた。健二に怪訝な視線を向けた後で。

健二は、この予期せぬ出会いが華代を深く動揺させていることに気づいた。

「ところで、あの日のことだけど……」

男が続けた。

健二は二人の関係を知らなかったが、そんなことはどうでもよかった。彼は、その見知らぬ男には想像もできない何かを、華代と共有していた。彼はこっそりと人差し指を華代の汗ばんだ背中に伸ばし、男の口から出る言葉をそのまま、確かな筆致で彼女の肌に書き記した。指先が彼女の肌を滑る間、彼の胸は幸福感で膨らんでいた。

華代は、自分の正体を明かすことなく彼に応えることができた。やがて、その迷惑な男は立ち去った。華代が、博物館の外で起きた事故のせいで耳が不自由であることを知らないまま。

その夜、健二は別の現場検証のために博物館へ呼び出された。驚いたことに、呼ばれた容疑者は彼一人だった。数少ない警察官たちが彼を無視しているかのような様子が、彼の不安を煽った。 特別展示室には華代がいた。これほど真剣な表情の彼女を見るのははじめてだった。

「あなただけを呼んだのは、犠牲者がどうやって殺されたかを証明するためよ。これを見れば、あなたも真実に辿り着けるはず」

彼らは開いた星の天蓋から離れた。床にはテープで安全な距離が示されていた。 華代は、天蓋のハンドルと連動した装置のハンドルを回した。鋭いムチのような音と共に、ナイフが飛んでいった。それは、天蓋を見上げながらハンドルの前に立った人物に、突き刺さる位置だった。

「閉じる方にハンドルを回すと作動する装置よ。紐が軸に巻き取られ、もう一方の端を強く引っ張ることで、刃が弓の矢のように飛び出す。それだけのこと。犯人が現場にいる必要はなかった。だから、あなたの容疑は晴れたわ。天蓋が細工されていた証拠? メカニズムを詰まらせていた、あの金属の破片よ」

健二は首を振った。

「君自身が言ったじゃないか。出会った夜に、犠牲者がトリックの装置で死ぬのは不可能だと。もしトリックの根源があの金属片にあるなら、どうやって犯人はカメラに映らずにそれを仕込んだんだ?

それに忘れている。天蓋が妻によって寄贈された時、検査されたがナイフなんてなかった。金属片を詰めるだけでなく、犯人は天蓋が博物館に届いた後に、あのナイフを縛り付けなければならなかった。繰り返すが、どうやってカメラに映らずにそれを成し遂げたんだ?」

「考えて。あなたなら分かるはずよ」

「君は間違っている。そんなことは不可能だ」

数分間、沈黙が流れた。華代はドレスの袖で涙を拭った。それを見て、健二も泣きたい気分になった。彼女を失望させたことが悔しかったが、嘘をつくことはできなかった。彼は無力感に苛まれていた。

「……お願いだ、何か言ってくれ」

と健二は口ごもった。

「何について?」

「もしあの金属片が、2回目の展示の時に初めて見つかったものなら、犯人は1回目の展示の時にすでに天蓋に細工をしていたことになる。でも2回目の展示が始まった時、天蓋は犠牲者を出さずに開いた。最初は金属片のせいで回らなかったけれど、障害物を取り除いただけだ。ナイフは飛んでこなかった。なぜあの時は作動せず、犠牲者の時だけ作動したんだ?」

「忘れないで。拓が死んだ後も、金属片は詰まったままだったわ。つまり、犠牲者は天蓋を開けることができなかった」

彼女は彼の質問を無視して言った。

「明後日、事件を正式に解決し、犯人を逮捕する。でも、その時が来る前に、あなた自身の手で答えを出してほしいの」

健二は意気消沈して外へ出た。机に向かってノートを広げ、お茶を飲みながら何時間でも考え抜きたかった。正面入り口まで来た時、呼び止める声がした。

「待って。行く前に」

華代だった。

もし目撃者がいたら、二人は決闘でもしているかのように見えただろう。

「あなたは星空について誤解しているわ」

「どういう意味だ?」

二人は街灯から遠く離れた場所にいたが、華代は彼が何を言おうとしているか察していた。彼女は腕を上げ、広大な宇宙の一点を指差した。

「星空は不変でも静止しているわけでもない。ただ一目見ただけでは、人々がそう信じているだけ。星の輝きは変化する。死に、そして生まれる。小惑星は砕け、軌道は変わる。現実は、空は常に変化し、進化し続けているの。それが、あるべき姿なのよ」

健二はどう答えていいか分からなかった。

10

期限は切れた。「考える人」の銅像の足元で、かつて娘が彼を待っていたその場所で、今度は華代が待っていた。いつも通り、夜だった。彼女はまだ、犯人の正体も方法も動機も警察に伝えていなかった。

それを隠し続けるのは不適切で、不謹慎なことかもしれなかったが、彼女が健二に課した「挑戦」が、捜査を遅らせていた。結局のところ、華代がこの事件に興味を持った最初の理由は、彼を助けるためだったのだ。この挑戦こそが、彼女なりの救済だった。

健二はまだ真実を見通せずにいた。華代は苦しげな溜息をつき、大学の講義のように丁寧な解説を始めた。

「装置の仕組みを理解するには、あなたがすでに知っているはずの2つのポイントを整理する必要があるわ。

第一に:過去にサボタージュがどのように発見され、解決されたか。天蓋が最初に展示された時、それは開かれた状態で来場者に公開された。特別展が終わると、それは閉じて片付けられた。

時間が経ち、2回目の特別展のために再び設置された。開こうとした時、金属片がそれを阻んだ。つまり、金属片は1回目の展示の間に仕込まれ、撤収の際にはただ『閉じる方向』にハンドルを回しただけだった。分かっている通り、金属片は『開く』のを妨げるけれど、『閉じる』のを 妨げることはない。

天蓋は金属片がメカニズムに入ったまま倉庫に保管された。そして2年後、2回目の展示のために出された。ハンドルを回しても開かない。その時、あなたたちはどうした? メカニズムを点検し、金属片を見つけて取り除いた。それが自然で単純な反応よ。でも、それが 唯一の反応ではない。人間はそれぞれ異なり、その心理は不可解なものだから。それが、第二のポイントに繋がるの。

第二に:盗みのために天蓋を開けられなかった時、犠牲者はどう行動したか。2回目の展示が終わった時、同じことが起きた。犯人は再び金属片を仕込んだ。でも天蓋を閉めてそのまま片付けたから、その時は発見されなかった。

そして今回、3回目の展示のために出され、特別展示室に設置された。その日は休館日だったから、翌朝の開館に合わせて広げられるはずだった。でも今回、細工された天蓋を最初に触ったのは、以前と同じ人物ではなかった。私でも、あなたでも、他の職員でもない。金を盗もうとした犠牲者、拓だった。拓は解説パネルにある通り、広げる方向にハンドルを回した。でも開かない。その時、彼はどうしたか? 彼は『逆方向』、つまりすでに閉まっているのにさらに『閉じる方向』へハンドルを回したのよ」

「……そんなの、意味がないじゃないか」

と健二は不満を漏らした。

「あなたのような人には、自分とは違う反射行動をとる人間がいることを理解するのは難しいかもしれないわね。でも私には分かる。何百人もの学生が、それぞれ違うやり方で望遠鏡を操作するのを見てきたから。例を挙げましょう。テレビの音量を上げようとして、リモコンのボタンを押す。でも反応しない。

……あなたはリモコンを分解したり、修理を呼んだりするでしょう。でも、音量を上げたいのに、逆に『下げる』ボタンを押してみる人たちが存在するのよ。なぜ下げるの? 上げたいのに。 それは反射的な行動よ。深く考えるまでもなく、下げるボタンも壊れているのか、それとも上げるボタンだけが壊れているのかを確認するためにね。犠牲者はそういうタイプだった。ハンドルを回しても開かない。何かが起きるかと思って、逆方向に回してみた。2回目の展示の前に金属片を 見つけた職員はそうはしなかった。すぐにメカニズムを確認するか、報告した。人間はそれぞれ違うからよ。

金属片は開くのを妨げるけれど、閉じる方向に回すのは妨げない。天蓋がすでに閉じている状態で、さらにその方向へ力を込めて回し続けると、紐がさらに巻き取られ、限界まで引き絞られる。これは、人の心理によって殺す相手を選別する罠なのよ。わざとそう作ったわけではないでしょう。犯人は、この古い天蓋の複雑な構造を利用して即興で罠を仕掛けたに過ぎない。ハンドルを閉じる方向に回した時だけナイフが飛ぶようにするのが、犯人の知識や、時間の限界の中で精一杯だったのでしょう」

「……でも犯人は、最初に誰がハンドルを触るか予測できないはずだ。拓がターゲットだとは限らない」

「ええ。犯人は拓を狙ったわけではないわ。誰でもよかったの。誰でもいいから、この天蓋のそばで死に、血を流す必要があった。……それが、あなたの奥様の一族の儀式だから」

「神を特定するための儀式では、現代の後継者が全裸になり、供物の血を飲まなければならない。その供物の死は、この天蓋の下で起こらなければならない……」

「あなたの奥様にとって、犠牲者の血を手に入れるのは簡単なことだったわ」

とゴスロリ探偵は続けた。

「ナイフの罠なら、血が飛び散り、天蓋を汚す。実際、そうなった。そして寄贈の際の条項……、管理に不備があれば元の持ち主に返還される。天蓋が彼女の手元に戻れば、彼女は血に触れることができる……」

「……儀式の執行者はかつて、大量の血を飲んだのでしょう。でもあなたの奥様は化学者よ。反応を起こすには極微量の液体で十分だと知っている。1リットルも2リットルも必要だなんてどこにも書いていない。夜空に眠る神……あるいは悪魔の要求を満たすには、たった一滴で十分なのよ」

「デタラメだ! ぼくの妻は科学者で、あんな古臭い伝統なんて捨てて、科学を学んだんだ! それに、血のついた天蓋は彼女の元には戻っていないし、捜査が終わっても戻ることはない。博物館は修復して再展示すると申し出たが、彼女はそれを断ったんだ!」

「断ったのは当然よ。もう天蓋は必要ないもの。血を手に入れる別の方法があったから。あなたが死体を見つけた時、あなたの服や手、靴に血がついた。あなたの奥様は、それらのどこからでも血を回収できた。たとえ手を洗ったとしても、爪の間に残ったわずかな痕跡を、あなたが寝ている間に集めることができた。もしあなたがあの日現場に行かず、死体に触れていなかったら、 彼女は必死になって返還を要求したでしょうね」

「妻が科学者だという話はどうなる! 彼女はぼくの前で何度も一族の風習を否定してきたんだ! だから動機なんてない!」

「あるわ。信じて。人は、悲劇によって心が壊れてしまうことがあるの。あなたの娘さんが亡くなってから、奥様は完全に変わってしまったのではないかしら? 現代的で科学的な女性が、深い絶望と精神的ダメージの中で、子供の頃に聞いた一族の伝承を思い出したとしましょう」

「彼らの信仰によれば……、この星座は宇宙に住まう神そのものである。願いを叶えるが、信仰を捨てた者には災いをもたらす……」

「彼女は考えたはずよ。『娘の死は、私が信仰を捨てたことへの罰なの? 注意されていたのに、 私は信じなかった』。そして思い出す。この神は願いを叶えてくれるのだと。……もし信仰に戻り、儀式を行えば、願いを叶えてくれるのではないか? 娘を生き返らせてくれるのではないか? 彼女が天蓋を寄贈した時、娘さんはまだ生きていた。だから天蓋にはまだ殺人の細工はされていなかった。娘さんが亡くなった後、彼女は1回目の特別展の時に博物館を訪れ、罠を仕掛けた。その時は犠牲者が出なかったから、2回目の展示の時に再び金属片を仕込んで待った。けれどその後、天蓋は倉庫に仕舞われ、ずっと、ずっと長い間眠っていた。……今、この時まで」

「……そこで君の理屈はすべて崩れる」

健二は真実を認めることを拒んだ。

「どうやって彼女は、監視カメラに映らずに金属片を仕掛けたというんだ?」

「簡単なことよ。監視カメラなんてなかったのよ」

健二はこめかみを押さえた。耐え難い頭痛が始まった。彼の病んだ脳が、治療を拒絶しているかのようだった。

「あのカメラは、設置されて以来ずっとあそこにあった。あの日、犠牲者が死んだ夜にはじめて切られたんだ!」

彼は言い張った。

「カメラが普及してからはそうでしょうね。でも昔の博物館にはそんなものはなかった。歴史上、電気が発明される前から博物館は存在していたわ。例えば、ローマのカピトリーノ美術館は 1734年に開館した世界最古の公立美術館だけど、当時は電球さえなかった。1897年開館の京都国立博物館の場合、1965年?、奥様が天蓋に細工をした当時、平成知新館さえ存在していなかった。だからその前の明治古都館で展示されていたのよ。そこにはカメラなんてなかった。彼女が最後に金属片を仕込んだ2回目の展示の時も、まだ博物館にカメラは導入されていなかった」

華代は彼に近づき、正義感に溢れ、勇敢だった男の頬を優しく撫でた。あの悲劇以来、心が完全に変貌してしまった男。妻とは別の、しかし同じように危険な病に侵された男。娘の死の瞬間に、時の流れが止まってしまった男。

「あなたの娘さんが亡くなったのは、60年も昔のことなのよ」

健二は、禿げ上がった頭に残るわずかな白髪を掴みながら、膝から崩れ落ちた。彼の顔は、漬物の梅干しのように深い皺が刻まれていた。

何万回もの夜空を見つめてきたその顔。そして叫び声とともに、健二はその場で息絶えた。「考える人」の銅像の前で。耐え難い感情的ストレスが引き起こした脳溢血だった。真実に向き合う準備ができていないまま、真実を突きつけられた結果だった。

2年後、華代もまた脳溢血で亡くなった。事故の後、医師たちは彼女の体に「有効期限」があることを告げていた。しかし彼女は、時の中に凍りつくのではなく、聴覚を失い、後遺症に苦しみながらも、一歩ずつ前へ進み、自分にできる限りの足跡を世界に残すことを選んだ。だからこそ、 彼女の死後、彼女が発見した天体には、今も彼女の名前が付けられている。

(完)

投稿者

showky@showky.jp