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樋口 漣『おもちゃの王様』

清水慧は『僧侶』のようだった。

正しくは僕が思い描く僧侶そのものだった。

清水は丸刈りがよく似合っている。それだけでなく、顔立ち、表情、声色、姿勢のすべてが、誰しもが持つ欲望から切り離されている。別の場所で会っていれば、目の前にいる男の放つ聖性を疑いもしなかっただろう。清水は、受刑者だった。それも、世間から『死神』と呼ばれるほど恐ろしい犯罪者だ。

映像や写真では幾度となく目にしてきたが、実際に見ると余計に、彫りが深く整った顔をしているのがよくわかる。三十代半ばにしては肌艶も良い。同年代だというのに僕の方は不規則な生活のせいで、肌がくすんでいた。

僕と清水はアクリル板越しに向かい合って座っていた。刑務所の面会室は、想像より明るい。ただ、徹底的に簡素だった。室温は凍えない程度に保たれ、嗅ぎ取れるほどの臭いもない。刑務官は部屋の隅にひっそりと控えている。清水はくすんだ薄緑色の作業服を着ている。偶然にも、僕のセーターと色味が似ていた。

「実は、お越しいただけないものと思っていました」

僕と清水を隔てている仕切りには、いくつかの小さな穴が開けられている。清水の穏やかな声はくぐもることなく届いた。清水は微笑みを浮かべている。僕は迷ったあと正直に「そのつもりでいました」と返した。

「私があなたから名前を奪ったのも同然ですから」

「筆名は変えない方が良いと言う編集者もいました」

筆名を変えるかどうか、僕自身も随分迷った。今も、変えて正解だったのか判断しかねている。

「五年前、あなたが新人賞を受賞した際には、掲載誌を買ってまで読みましたし、その後刊行された小説はすべて持っています」

僕は礼を言うべきだとわかっていながら、どうしても言葉にはできなかった。

「どの作品も大変興味深いものでした。作品に表れた犯罪に対する見識だけでなく、あなたの価値観、倫理観、思想、理想が垣間見えました」

清水が僕のことをどう解釈したのか気になる一方で、不快でもあった。『あくまで僕が作り出した架空の人物の思考や行動を書いただけだ』と反論したくなったが、清水が表面的な部分で解釈しているとも限らない。もしかしたら、今まで書いてきた小説には、自分では気づけない共通点が

あるのかもしれない。

「私があなたを招待した表向きの理由は、手紙に書いた通りです」

出版社を通して僕に届けられた手紙には『直接会って、迷惑をかけたことへの謝罪がしたい』とあった。清水の文字はペン習字の手本のように美しく作り物めいていた。そして、語彙が豊富で流麗な文章が僕の劣等感を刺激した。だから面会をするつもりにはなれなかったのだ。

にもかかわらず、今こうして清水の前に座っているのは、編集者に「取材だと思って」と説得されたからだ。僕は、上着の内ポケットから手帳とペンを取り出した。

「時間が限られているので、焦る気持ちはわかります」

清水は確かに微笑んでいるのに、視線が冷たく感じられた。僕は余計に焦り、何か言葉を発しようと口をわずかに開く。

「しかし、質問をするのは私であって、あなたではありませんよ」

清水の言葉で、僕はあっさりと出鼻をくじかれた。

「私が読んだあなたの小説はすべて三人称で書かれていましたが、登場人物の台詞内では様々な一人称が使われています。デビュー作『ホロホロ鳥の鳴くころに』の主人公、室田陣は自分を『俺』と表現していました。『折れた秒針』の主人公、美津野陽太は『僕』、『瞬殺の定義』の主人公、鈴村克紀は『私』でした。八作品のうち半数が『俺』でしたが、あなた自身は普段、『俺』を使っているのですか?」

僕は言葉に詰まった。自分が使っている一人称がわからなかったからではない。過去作の細かなところまでは覚えておらず、清水の指摘が合っているのかの確認に思考を奪われていたせいだ。

「わからないのですか?」

僕は少しムッとしながら「いえ、私は普段『僕』をよく使っています」と返した。

「今『僕』と言わなかったのは、私の前だと『素』ではいられないからですね」

「仕事……なので」

「私の謝罪を受けるのは、仕事になるのですか?」

清水の視線が僕をまっすぐ捉えていて、やけに落ち着かない。

「言葉の選択を誤りました」

「小説家ともあろう方が?」

僕は観念して清水に頭を下げた。

「あなたが私に会いたくて来たわけではないのが、よくわかりました。残念ですが、致し方ありません。なにせ私は『死神』ですからね。誰も、狙われたくはないでしょう?」

僕は自分が背中に汗をかいていたと気づいた。汗が冷えていく。

「心配されなくても、あなたは私の標的にはなり得ません。私はあくまでも、法で裁けない罪人を葬る執行人なのでね」

自らを執行人と言いながら、清水は一度としてその手を汚したことはないとされている。今、服役している罪状も、殺人罪ではない。

清水が逮捕された直後は関心を持っていた。しかし、時間の経過とともに被る迷惑に対するストレスが強くなり、清水に関する情報が入らないようあらゆる手段を講じた。

「私がこれまでどのような事件に関わってきたのか、私以上に『世間』の方が知っている有様です。記憶力には自信がありますが、まったく身に覚えのない事件も含まれていました」

濡れ衣を着せられたというのに、楽しそうに話す。僕は喉の渇きを覚え唾液を飲み込もうとしたが喉仏が虚しく上下しただけだった。まだ何も取材できていないというのに、今すぐこの場を立ち去りたい衝動に駆られていた。たとえ標的にされなくても清水は関わってはいけない相手だ。

「まだ本題をお伝えできておりませんので、もう少しお付き合いいただけますか?」

清水にすべてを見透かされている錯覚に陥る。僕は頷かなかった。しかし、この場から立ち去ることもできなかった。

「まだいくつか質問があります。新しい筆名はなぜ『芥子泉(けしいずみ)』なのですか?」

「本名です」

「なるほど。最初の筆名はアナグラムだったのですね」

僕は頷いた。『けしいずみ』を組み換えて『しみずけい』にした。せめて名前を別の漢字にしておけば、ここまでの影響を受けずに済んだ。

「最初から本名にしなかったのはなぜですか? なかなか良い名前だと思いますが」

「消し炭に音が似ているから避けました」

「小学生の頃にでも、からかわれたのですね」

清水は「微笑ましい」と目を細めた。僕にとっては、決して良い思い出ではない。

「失礼しました。幼い頃の心の傷はいつまでも癒せないものですよね。私にも経験があります」

顔に出したつもりはなかったが、感情の動きを読み取られていた。わずかな変化も見逃さないようだ。

「とはいえ、あなたの作品は大人の読み物なので『消し炭』と揶揄する読者はいないはずです。漢字から受ける印象は、とても作風に合っています。以前の『清水慧』よりもずっと」

僕は清水の意図を測りかねていた。

「悪い意味ではありませんよ。芥子の花は、派手ではないけれど色鮮やかで、その上、親しみやすい見た目とは裏腹に毒を含む種類もある。『泉』からは、澱みない水が湧き出し、波紋が広がる水面が煌めいている絵が浮かびます。スッと染み込んでくるあなたの文体にピッタリです」

僕は口元を意識して引き締めた。それでも緩んでしまいそうになり、慌てて手のひらで隠す。

「同じ名前の小説家に興味が湧いたのがきっかけでしたが、すぐファンになりましたよ」

清水から評価されて喜んでいいのかわからない。ただ、心は勝手に震えていた。

「せっかく権威ある新人賞を受賞した筆名を、あなたに捨てさせることになり、私としても残念でなりません」

筆名が『清水慧』だったために浴びせられた誹謗中傷の数々が頭をよぎり、こめかみに痛みが走る。

僕は顔を顰めた。

「お詫びしたところで、失ったものが戻るわけではないとわかっています。それでも、どうにか償いたいという想いがあります」

アクリル板の向こうにいる清水は、心から申し訳なく感じているように見える。ふと『清水が悪いのだろうか』と疑問が湧いた。犯罪者と同じ名前だという理由で僕に嫌がらせをしたのは、清水ではない。事件の被害者の家族でもなく、縁もゆかりもない第三者たちだった。僕が鬱憤を晴らすためのターゲットに選ばれただけだった。

「お詫びも償いも必要ありません」

清水が原因であるのは間違いない。だからこそ、清水に『巻き込まれて気の毒に』と思われたくはないのだ。

僕の問題は、筆名を変えることで一応はおさまった。『芥子泉』としてこれから実績を積み上げなければならないが、それは自分自身が乗り越えるべき壁だ。

「さすがは『清水慧』先生ですね」

清水は口元に拳を当てながら、クスリと笑った。

「不思議なものです。私もかつて先生と呼ばれていました。同じ名前に同じ敬称をつけられていた私とあなたには、ここまでの違いがあるのですから」

同じでないのは明確だったが「違いとは?」と聞き返した。

「言わなくともわかるでしょう」

僕の頭の中で様々な単語が浮かんでは消えていく。犯罪者である清水と、犯罪者ではない僕を比べているのに、なぜか清水の方が僕より優れている点ばかりが思い浮かぶ。

「なぜそんな顔をしているのですか? 私には虚構を紡ぐ才能がないけれど、あなたにはあるじゃないですか」

清水が小説を書いたら傑作になりそうな気がして、褒め言葉を素直には受け取れなかった。

「あなたはご自身の価値を低く見積もりすぎている気がしますね。私のせいで受けた誹謗中傷のせいでしょうか」

清水はきっと知らないのだ。清水のおかげで一時的に僕の本の売り上げが伸びたことを。新人賞を取った割に話題にならなかった僕のデビュー作に増刷がかかった。しかし、多くの人に読まれたせいで、酷評も増えた。

そして、『清水慧』という名のおかげで売れた期間はあまりに短かった。後には、粘着質なアンチだけが残ったのだ。僕の精神は向けられる悪意に耐えられず、まったく小説を書けなくなった。ある出版社の担当編集者から筆名を変えて出直しをはかるよう提案をされ、受け入れた。

今は新人賞の賞金や、今まで刊行された小説の印税でできた貯蓄を取り崩して生活している。それも長くは続かない。

『芥子泉』の名でそれなりにでも売れる小説を発表しない限り、僕の作家生命は断たれてしまう。

編集者の「取材だと思って」という言葉は、『清水慧』をネタにしてでも新作を書けという圧力だった。

また僕は、逃げ出したくなっていた。

「そろそろ、あなたをお呼びした本来の目的を明かそうと思っていたのですが、やめた方が良さそうです」

「えっ?」

僕は目を見開いて清水の顔を見つめた。瞬きも抑えて凝視しているのに、清水の表情には何も変化がない。これまでは何かしら清水が口を開いてくれた。しかし今は、一向に沈黙が終わらない。

ようやく清水の口元が動いたけれど、聞こえてきたのは「そろそろお時間ですね」という締めの言葉だった。

「待ってください」

僕は思わず、清水を引き止めた。

「今、『このままじゃ眠れない』って顔をしていますよ」

清水が笑顔を見せた。決して嘲るようではなく、呆れを含みながらも、屈託のない笑顔だった。

「あなたにはずいぶん楽しませてもらったので、要点だけお教えします。それで良いですね?」

僕はつい三度も頷いた。

「私はこうして今、刑務所で暮らしていますが、実際は罪など犯していないのです。いくらでも無罪を勝ち取る方法があったのですが、気が向いて判決を受け入れたんです」

「冤罪なんですか?」

「冤罪とは少し異なりますね。しかし、本題はここではないので、説明は割愛します」

僕は、清水の顔を食い入るように見つめていた。アクリル板で隔てられていなければ、手を伸ばし袖を掴んでいたかもしれない。

「今日お呼びしたのは、私が唯一犯した罪を、あなたの手で小説にしてもらいたかったからです。これまで露見せず、あなたが小説にしない限り、この先も知られることがない私の罪についてです」

「ノンフィクションではなく……小説ですか」

「さすがですね。理解が早い」

「しかし、そんなことをしたら刑期が伸びるんじゃ……」

「ご心配には及びません。たとえさらに罪を上乗せされようとも、あなたのお役に立つことの方が重要なので」

僕はもう抗えなかった。清水が唯一犯した罪を小説にして再起に賭けたいわけでもなく、ただ単に、どんな罪だったのかを知りたくてたまらなかった。

「いろいろと煩わしさも伴う提案なので、今すぐの返事は難しいでしょう。今日はこの辺りで終わりにします。決心がついたら手紙をください」

「返事は今でも」

「いえ、よく考えてください。本当はどうしたいのかを」

「本当は……?」

清水には僕にも気づけていない深層心理が見えているのだろうか。

「あなたからのお返事を保留にさせておいてこんなことを言うのはおかしいですが、引き受けてくだされれば、きっと、あなたの小説はさらに深いものになりますよ」


これが、僕と清水の出会いだった。

面会の後、僕は一週間も待てず、清水に手紙を送った。本当はどうしたいかなど突き詰めもせずに。

清水も問い詰めては来なかった。

それから清水と手紙のやりとりを繰り返した。清水の手紙の内容は、歴史の年表のようだった。何年何月どこで誰と誰が何をしたか。心の動きは示されず、出来事だけが時系列に書き連ねられていた。

僕は当時のことを深く理解したくて清水の故郷である京都に何度も足を運んだ。

そして、半年をかけて書いた小説を清水宛に送った。

タイトルは『サマエルの甘い手』だった。


◆◆◆

『サマエルの甘い手』

次のア~エの熟語の中から、①湯桶読み②重箱読みのものを、それぞれ一つずつ選び記号で答えなさい。

ア.見本 イ.台所 ウ.元旦 エ.鬼歯

中学校入試の定番問題だ。

青いマーカーを手に取りキャップを外す。小気味良い音がした。

私はホワイトボードに『湯』と書き、『ゆ』とふりがなを振った。太めのマーカーは手のひらに収まりが悪く、字が少し歪んでしまったが、書き直すほどではない。

次に赤いマーカーで『桶』を書き始めた。赤いマーカーのインクの出が悪く、書き順が後になるほど薄くなっていく。書き終えたところで予備のマーカーに持ち替え、『桶』の右隣に『トウ』と書いた。本来、添え物に過ぎないふりがながやけに浮き上がっている。『桶』をもう一度なぞろうとして手を止めた。なぞれば次は『湯』が気になるに違いない。

私は生徒たちの方に体を向けた。八畳の客間に、古びたエアコンのモーター音が響いている。ガラス窓の向こうからは蝉の声が聞こえていた。五人の生徒たちは大きめの座卓にノートを広げ、しきりに鉛筆を動かしている。

「青いほうが訓読みで、赤いほうが音読みなのはわかるやんな」

生徒のうち中村だけが小さく頷いた。

訓読みにはひらがな、音読みにはカタカナでふりがなをつけるだけではまだ足りない。生徒たちに色鮮やかな映像を焼きつける工夫だ。

「問題文に湯桶読みは上が訓読みで下が音読みと説明を入れてくれとる学校もあるけど、いつでもそうとは限らへん。やから『湯桶』『重箱』それぞれと同じ組み合わせの熟語を選ぶだけだと覚えておけばええよ」

元々簡単なことを噛み砕いて説明しなければならない。相手が小学生なのだから仕方ないとわかっている。

私はすべての過去問に飽き飽きしていた。

目の前の二字熟語が湯桶読みであろうが重箱読みであろうが、生活にまったく影響はない。にもかかわらず、生徒たちは用意された熟語を正確に分類しなければならない。試験の正答率が今後の人生の成功率に比例すると信じられているからだ。

生活に影響がないと言いながら、最近、中学受験のための勉強も悪くないと思い始めている。幼いうちに基礎的な知識を詰め込んでおけば、大人になってから『琴線に触れる』と『逆鱗に触れる』を混同する心配もない。どちらにも元となる故事があるのだから『言葉は変化するものだ』という免罪符が適用できる間違いではない。

それでも、小学生にとって受験勉強はつまらないものだ。ほとんどの問題は、『基礎』ではなく『根本』を理解していれば解けるものだ。それなのに、『基礎』を反復したあと、『発展』を何問も解かされ続ける。

子供に「今頑張れば将来、家を建て高級車を買い、年に数回海外旅行に行けるだけの収入を得られる」と言ったところで、やる気は引き出せない。だから勉強自体が楽しいと感じさせる工夫が必要になる。知識を増やすことに楽しみを覚えられるのであればそれが一番だが、簡単ではない。

今の努力が報われ一目置かれるほど偏差値の高い学校に合格すれば、優越感が得られる。しかしそれも一時的だ。同

レベルの集まりに身を置けば、途端に埋もれてしまうのだ。終わりのない試練の中で、モチベーションを保つのは容易ではない。

『やる気にさせる』には、目の前の快楽が一番の効果を発揮する。承認欲求を満たすのがてっとり早い。

「ここにおる五人は、ほんま特別なんやで」

目の前に並ぶ五人の反応は薄い。あえて控えめな性格を基準に選んだのだから当然の結果だった。

私がこの実験的な合宿を思いついたのは、昨年の夏だった。一年をかけ入念に計画を立て、現在、実行している最中だった。

私が所属している進学塾には入塾テストがあり、通っている時点で一定以上の学力がある証明にはなる。関西では有名な進学塾で、ロゴの入った通塾バッグを背負って歩くだけで大人から「賢い子」と認定される。

どのような分野でも、負けず嫌いは台頭しやすい。そういうタイプは放っておいても勝手に努力をする。私が目をつけたのは、このままでは難関校を突破できないであろう生徒だった。

こうして、成績が真ん中より下で、かつ、目立たない五人を選定した。いずれも男子である理由は、同性の方が余計な問題を心配せずに済むからだった。

「田中君、湯桶読みがどれか答えてくれ」

田中はすぐには反応しなかった。隣にいる井上が肘で突く。ようやく顔を上げて「あっ、俺やった?」と言った。

「そうや、君が田中や。はよ慣れてくれんと困るで」

五人には授業の前にくじを引いてもらった。合宿中は、くじに書かれていた苗字で呼び合うように言ってある。用意してあった苗字は『田中』『井上』『中村』『山本』『西村』だ。別の名前を与えることで自分自身に貼り付けたレッテルを強制的に剥がしてしまおうという魂胆だ。

山本はノートの一ページ目に書き込んだ苗字を見返している。

田中が「アの見本です」と答えた。

「そやな。じゃあ次は、中村君に重箱読みを答えてもらおうか」

「イの台所です」

「正解。最初の問題やとしても、君たちには少し簡単過ぎたかもしれんな」

目の前の五人はあからさまには喜んでいないが、自尊心を

をくすぐられ悪い気がしていないのは見てとれた。

私は何冊もの教育論を読んでから指導プランを立てた。まず自己肯定感の回復から取りかかった。

十分、学力の高い生徒でも、より優秀な生徒ばかりを見ていれば次第に自己評価が低くなる。もちろん自己評価が高すぎて努力をしないのも困りものだが、必要以上に萎縮するのは良くない。

合宿の形式にしたのは、親の余計な影響を排除するためだ。

教師や講師が子供たちから尊敬されにくいのは、多くの場合、親の影響だった。子供に中学受験をさせる時点で、ある程度収入が多い家庭だ。親たちは心のどこかで、医者や弁護士になれず一流企業にも就職ができず『塾講師』に収まったと思っている。

その点、まだアルバイトで講師をしている大学生の方が尊敬の対象にしやすい。本来ならプロフェッショナルの方が極めているというのに、臨時講師の将来性の方が尊ばれる。

子供の方はというと、話が面白く友達のように接してくれる講師を好む傾向にある。加えて、国語を専門にしているはずの講師に、算数をわかりやすく教えてもらっただけで「一番すごい人」だと勘違いしてしまう。

私はそういう意味でも、憧れを抱かれやすい立ち位置にいた。

会場の選定が一番重要だったが、邪魔が入らず安全な環境はなかなか見つからなかった。この家の主である正岡由希子と出会えたのは、かなりの幸運だったと言える。

正岡由希子は八十代の小綺麗な女性だ。ゆったりとした京ことばに癒される。そして、一目でわかるほどの資産家だった。二十年以上前に夫と死別し、三人の子供たちはみな関東でそれぞれ家庭を築いている。

正岡邸は京都市北区の閑静な住宅街の中にある。京都市の中心からは外れているとはいえ、敷地はかなり広い。敷地の外郭は白壁の塀で囲われ、屋根瓦付きの門からも豪邸だとわかる。中の様子がまったく外にはわからないところが特に気に入った。

夏休みのうちの一週間、外界との繋がりを一切絶って、受験勉強に集中するのに最適な環境が得られる。

私は何食わぬ顔で正岡邸のインターホンを押した。私の歳の頃が孫の一人と近かったため、勘違いした彼女があっ

さりと私を屋敷に招き入れてくれた。正岡由希子の同情を誘う作戦を立てていたが、簡単に入り込むことができた。私の予想以上に、正岡由希子の判断力が低下していたのだ。一人暮らしは寂しいのだろう。正岡由希子に「また遊びに来て」と頼まれた。そうして交流を深めたあと、小規模な合宿のために一週間だけ部屋を貸してほしいと切り出したのだ。私からのお願いを簡単に聞き入れてくれた。

その後も、休日には正岡由希子の家に通い、合宿の準備を進めていった。

その甲斐あって、今、合宿一日目が順調に進められている。

授業形式は最初の数時間だけで、あとは基本自習形式にする。私は塾の自習室に常駐しているチューターと同じ役割を担うのだ。五人と少人数ではあるが、生徒それぞれに苦手な科目や単元が違う。この合宿でそれぞれの『苦手』を潰す予定でいる。

生徒たちがホワイトボードの文字をノートに写していく様子を見守っていた。だいたい書き写せたのを確認し、一回手を打ち鳴らして生徒たちの注意を引いた。

「もうすぐ昼休憩に入るんやけど、その前にみんなに改めて伝えておきたいことがあるんや」

五人は黙ったまま私の顔を見上げていた。

「これから一週間、嫌というほど勉強をしてもらう。嫌になったらいつでも抜けてもらってかまへん。そのために公共交通機関が使える立地を選んであるんや。ただし、抜けたあともこの合宿については誰にも話さんといてほしい。自分が抜けるのはかまへんけど、他の人の邪魔だけはやめてな」

山本が最初に「絶対に抜けません」と言った。あとの四人も次々と続いた。

私は「さすが、僕が選んだ五人や」と目を細めた。

「ほな、昼ご飯にしようか」

さすがに生徒たちの顔がほころんだ。

「待っててな。正岡さんに声をかけてくるさかい」

私は半障子の戸を開け廊下に出た。頬に湿った熱い空気が触れる。蝉の声は一層大きくなった。

正岡邸の庭は手入れが行き届いている。形を整えられた松や楓などの木々がバランスよく植えられていた。中央には池と鹿おどしがある。大きな庭石は緑がかっていて美しかった。

最初に正岡邸に入った時、『古刹』のようだと思った。私の祖父は寺院や神社を回るのが好きだった。幼い頃、私はよく祖父に連れられて京都市内だけでなく府内の名刹を巡った。京都には有名無名にかかわらず、いくらでも歴史ある建造物があった。

庭に鹿おどしの小気味よい音が響いた。

正岡由希子は、ほとんどの時間を居間でテレビを見て過ごす。私は長い廊下を歩きながら、正岡由希子への呼びかけを脳内でイメージしていた。

居間の、すりガラスのはまった戸に手をかけた。ガラスが揺れ、音が鳴る。正岡由希子の背中越しに見えるテレビ画面には、ちょうどお昼のニュースが流れていた。

私は「子供たちの失踪はまだ取り上げられはしないだろう」と口元に笑みを浮かべた。

「あら、優ちゃん」

正岡由希子は振り返ってすぐに、孫の名前を呼んだ。彼女の脳のコンディションは日によって違う。男の孫がもう一人いて「洸ちゃん」と呼ばれる日もある。孫に間違えられる日はまだ良い方で、時々息子の名前で呼んでくる。正岡由希子の意識が人生のどの地点にあるかで変わってくるのだろう。

テレビの周囲には、いくつも家族写真が飾られていた。成人式の時のスーツ姿の青年が『優ちゃん』だ。私とはまったく似ても似つかない、意志の強そうな顔立ちで、がっちり体型だ。それでも正岡由希子の目には私が『優ちゃん』に見えているのだ。

「おばあちゃん。しばらく台所を使うで」

「お腹、空いたんやな。優ちゃんの好きなもんあるやろか」

「こないだ、ようさん買ってもうたから、なんなとあるよ」

合宿のために、冷凍庫を増設させた。冷凍庫の中には、何週間もかけて生協に届けてもらった食材がたっぷり入っているのだ。

生徒たちには「勉強を頑張ってもらう代わりに、食事は好きなもんを好きなだけ食べてもええよ」と言って予め好きな料理を聞き取ってあった。

カップラーメンやお菓子の類いも大量に買い込んである。

「一人でしたいから、しばらく台所には来んといてな」

「おばあちゃんはここでテレビでも見とくわ」

正岡由希子の記憶は、そう長く保たない。しかし、足が弱ってきているのもあり、ほとんど居間から出ようとはしない。念のために釘を刺しにきただけだった。

私は一度生徒たちの元に戻った。

「先に食事の順番を決めよう。あみだくじでええな?」

電子レンジが一台しかないため、冷凍食品の解凍には相当な待ち時間が生じる。事前に軽く説明してあったので、五人から特に反発はなかった。

「待ってる間、スナック菓子でもつまんで、小腹を満たしてくれたらええから」

親だったら絶対にしないであろう提案だ。案の定、子供たちの目が輝いた。

みんなで台所へ移動した。西村が最初に昼ご飯を選んだ。冷凍の醤油ラーメンだった。この家には嫌というほど食器がある。中には高価な物もありそうだが、私には器の目利きはできない。できるだけシンプルで軽い物を選んで、西村に渡した。

井上が冷凍庫を覗きながら「アイスがあるやん」と言った。

「食べてもええかな?」と私に視線を向けてきた。

「好きにしたらええよ」と笑顔で返す。

西村まで冷凍庫の前に戻り、アイスを選び始めた。五人とも楽しそうにしている。私は計画が順調に進んでいる様子に安堵した。

心配なのは夜だった。慣れない場所で夜をすごすのだから不安になる生徒がいるかもしれない。余計なことを考えられないよう疲れさせるつもりでいた。

私は順番を待つのが面倒で、カップ焼きそばを選んで食べた。ソースの香りに誘われて、生徒たちも食べたがった。食べたいだけ食べて良いと許可を出すと、一つ作ってみんなで分けていた。

使った食器は、各自が洗う決まりになっていた。

午後は適宜休憩を挟みながら、志望校の過去問題に取り組んだ。京都市内に住んでいても、兵庫や奈良の私立中学校を目指す子供がいる。私が選んだ生徒はみな、市内の男子校を目指していた。

現代文の読解問題に特徴がある学校だ。まず読む速度をあげる必要があった。

速度は理解するだけでは上がらない。地道な反復練習でしか身につかない。たった一週間の合宿では足りない。

合宿後の自主勉強で必ず克服するように意識づけをしようと考えていた。

計算の速度もしかりだ。

私が合宿で行うのは、夏休みの最後に行われる模試で、順位を大幅にあげるための手助けだ。合格までをサポートするつもりはない。なかなか順位が上げられずくすぶっている層から五人だけを、掬い上げる。その後も維持できるかは本人次第だ。

私は本を読みながら生徒たちの側にいた。声をかけられれば側に行き、問題を解くためのヒントを教える。正解なら問題集の後ろに載っている。どうアプローチするかが大事だ。

私は生徒たちに責任を負わない。授業料を取るわけでもない。私の誘いに乗ったのは、あくまで本人らだった。ただ、夏休みの間に格段に伸びた生徒たちを指導したのが私だったという実績が得られればそれで良かった。

いったん生徒たちを部屋に残し、夕飯の段取りのため台所へ向かった。

冷凍食品は麺類が多い。夜は米を炊いてレトルト食品も導入する。もちろん三食麺類で構わない生徒には好きに選ばせる。

正岡由希子が小柄なため、調理道具は比較的低い位置に配置されていた。小学生にも使いやすい高さなのは都合が良かった。

予め買っておいた無洗米を三合分釜に入れ、ミネラルウォーターを注いだ。水につけておく時間は省略して、すぐに炊き始めた。足りなければパックの白飯も用意してあるので、問題はない。

思いつく限りの用意はしてある。しかし、不測の事態は起こってみなければわからないものだ。

夜十時の就寝予定まで、できる限り勉強をさせる。集中力を維持させるために定期的に「たった一週間で今後の人生が変わる」と意識付けを繰り返す。夕食の時間はやる気を起こさせるのに重要だと考えていた。

夕食は全員がレトルトカレーを選んだため、白ご飯が足りなくなった。

中村に「パックご飯の方が美味しいかもしれへんで」と声をかけると、「たしかに」と笑顔が返ってきた。昼食時とは違い、全員の分が揃ってから同時に食べ始めた。

正岡由希子の好みなのか、欧風カレーがたくさんストッ

クしてあった。まろやかな味で好評だ。

「カレーだけやと足らんやろ? 唐揚げいらんか?」

「欲しい!」「僕も」と全員が手をあげた。

食後に冷凍パインをつつきながら雑談が始まった。私は頬杖をついて、みんなの話を聞いていた。

「僕らも先生みたいに賢くなれるんやろか」

「先生は良い学校に通っとるしな」

「みんなも頑張って良い中学に入ればええだけやんか」

山本が「そうなるように、頑張ります」と深く頷いた。

「良い学校を目指すのも大事やけど、将来どんな職業に就きたいのか、みんなはもう決まっとる?」

みんなそれぞれ他の四人の顔を窺いながら、首を傾げ合っている。

「先生は?」

「僕はお父さんが大学教授やから、そっち方面で考えとるけど、まだ考える時間もあるし変わるかもしれへん」

私の言葉を聞いて、親の背中を追えば良いと思ったのか、西村が「うちは父が裁判官やし、弁護士になろうかな」と言い出した。

「ええなあ、弁護士。僕もそれにするわ」

私は半分呆れながらも「まあ、弁護士を目指して勉強しておけば、後で他の職業に就きたくなっても基礎学力は足りてる状態になっとるやろ。そういうのんの最たるは『医者』やけどな」と笑った。

中村の表情が変わった。

私は中村を見つめながら「君らの志望校は医者の息子が多いから、医学部を目指している子と友達になって切磋琢磨できるはずやで」と言った。

食事が終わり、次は順にシャワーを浴びていく。着替えは予めおそろいのTシャツと短パンを用意してあった。下着と靴下だけは家から数日分を持ち出してもらった。洗濯をすればすぐ乾く季節なので、着替えの用意は最小限で済んだ。

私は一度、正岡由希子の様子を見に行くことにした。日は落ちたがまだ薄暗い程度だ。庭にはところどころ常夜灯が灯っている。昼間とはまた趣が違う。蝉の声はほとんど聞こえず、代わりに小鳥が忙しなく鳴いていた。

正岡由希子がどこにいるかは知らないので、居間から確認していく。ガラス戸から光は漏れていないが、テレビの音はかすかに聞こえてくる。

私は戸を開けて「おばあちゃん、いてるん?」と声をかけた。

「ああ、克紀。おかえり」

「うん、ただいま」

「ごはんの支度をしなあかんね。何が食べたい?」

「僕はもう食べたから気にせんでええよ。それよりお母さん、うどんでよければ作ってくるで」

正岡由希子は満面の笑みを浮かべながら「ほんま、優しい子やな」と言った。

「ごめんな、なんか最近、体が思うように動かへんのよ」

「そんなこともあるやろ。用意してくるさかい、ここで待っといてな」

私は台所に戻った。生徒たちはもう寝室として用意した部屋に移った後だ。エアコンを効かせ、布団の中で暗記物に取り組むよう指示しておいた。

雑用を済ませ、私もシャワーを浴びた。この後、合宿初日の仕上げが控えている。さすがに反発があるかもしれないが、上手く説得できれば夜間の対応が楽になる。

私は予め半分に割って用意しておいた錠剤をバッグから取り出した。

寝室に入ってすぐ「どうや、結構覚えられたか?」と声をかけた。

「みんなで四字熟語を最低でも三十は覚えようって決めて、頑張りました」

「えらいやん」

六つの布団が並べて敷いてある。修学旅行の旅館を思い出した。真ん中の布団が空いている。どうやら私は真ん中で寝なければならないらしい。

みな布団から這い出て、枕の横に正座をした。

「せっかく覚えたもんを定着させるには良い睡眠が重要や。そこで君たちのために漢方薬を用意してきたんやけどな……」

みんなの顔がこわばった。

「お察しの通り、結構苦い。僕は毎日飲むようにしてるけど、無理強いはせえへん」

「僕は飲みます。苦いのは平気なんで」

山本は今回も積極的だ。勝手に桜の役割を果たしてくれる。

「じゃあ、取りに来て」

山本は布団の上で立ち上がり、すぐに私の前まで来た。

私がピルケースを開け、錠剤を半欠片摘んで顔を上げたときには、全員が山本の後ろに並んでいた。

ミネラルウォーターは十分に用意してあった。ペットボトルを一本ずつ渡す。

私の母親の睡眠薬を少しずつ拝借し溜めておいたのだ。一回一錠の半分であれば、害もないだろうと踏んでいた。

薬は良く効いた。二十分もせず全員眠りにつき、部屋の中は静かになった。正岡由希子も就寝したらしく、居間にはもう気配がなかった。私は居間に入りテレビを点けた。

もう警察に捜索願が出されているだろうか。経済ニュースが流れていた。私にとって株価や為替相場の見通しは不必要な情報でしかなかった。

生徒たちに家出の形を取ってもらうために、かなり神経を使った。

秘密の計画があると話を持ちかけ、十分にその気にさせた後、「親に相談したら反対されて絶対に参加できへんなると思うで」と親には行き先も告げずに出てくるよう言いくるめた。

京都市内で同じ塾に通う子供たちが同時に姿を消した。なんらかの事件に巻き込まれたのではないかと騒ぎになるだろう。

咎められるのは覚悟の上だった。ただ試したくて仕方がなかったのだ。私の独自のやり方で、成績の振るわない生徒がどれだけ伸びるかを。

生徒たちにはどうしても用意したカリキュラムを完全に終えさせたかった。

小学生が帰宅しなかったとしても、身代金の要求がなければ集団家出の可能性で捜査が進むかもしれない。どちらにしてもニュースになるのは明日以降だろうと考え、テレビを消した。

居間には、正岡由希子が押し売りされた商品がたくさんあった。パソコンもその一つだ。ケーブルテレビとセットのインターネット回線も引かれていた。いくつかの通販サイトに正岡由希子のクレジットカード番号を登録し、必要な物を手配してきた。

今夜はネットスーパーで食料を調達するために、パソコンを立ち上げた。

思っていた以上に食料の消費が速い。冷凍庫の容量も計算して注文する必要があるが、パンを多めに買っておきたかった。ネットスーパーの品揃えは充実していた。揚げ物

やサラダ巻きなどの惣菜もいくつか選んだ。ウインナーも電子レンジで加熱するだけで食べられるので何種類かカートに入れた。

決済画面を見つめながら、正岡由希子の純粋さに感謝した。

この家には床下乾燥機がいくつも取り付けられているらしく、契約書が何枚もしまってあった。

合宿の準備で通い詰めていた折に一度、リフォーム業者を追い払ってあげたことがあった。業者の持ってきた見積もりは三百万円だった。正岡由希子が契約しかけていたため「一人で決めてええの? お父さんに電話で聞いてみよう」と割り込んだのだ。業者は「改めます」と言って帰ったきり、今のところ姿を見せない。

そんなこともあり、正岡由希子に合宿の運営費用を負担してもらうのは妥当だと考えていた。

無事、食料の調達もでき、私は生徒たちが眠る寝室へと向かった。

二日目は、庭に出てラジオ体操をするところから始まった。

睡眠薬もとくに副作用はなさそうだ。みんなスッキリと目覚めていた。買いだめしてあった冷凍食品の中ではホットケーキが一番朝食らしいので、提案してみたが、山本以外はパスタやグラタンを選んだ。

一日中勉強を頑張る代わりに食事は自由にさせる。一週間という限られた期間だからこそ使える手だった。

食事のあと、一時間だけ算数の授業を行った。図形は躓く生徒が多い単元だ。五人の志望校は理数科目だけを重視しているわけではないから、ある程度理解できていればなんとかなる。ある程度と言いながら、最難関よりはいくらか易しいだけだが。

授業の後は、昨日と同じく各自問題を解いてもらう。

今日はネットスーパーの受け取りがあるため、正岡由希子への根回しが必要だった。耳が遠く、インターホンに気づかない恐れがある。私は居間に入ってテレビの音量を下げた。

合宿で勉強に使っている部屋は玄関からかなり遠い位置にある。配達予定の時間には、正岡由希子についておく方が無難に思えた。

問題は、二時間近く私が目を離して、しっかりと学習に

集中できるかだった。

生協と違い、ネットスーパーは対面で受け取らなければならない。私が正岡由希子の代わりに受け取れればその方が楽なのだが、私の自宅は近所にあるため、知り合いに正岡邸の中にいるところを見られるのはまずいのだ。

正岡邸が近くなければ、こんな優良物件に出会えなかった。私の母親が近所の女性と世間話をしているのが耳に入り、正岡由希子の存在を知ったのだ。

世間話の内容は、「年老いた母親が目に見えて弱ってきているのに、まったく京都に帰ってこない息子」に対する陰口だった。論調は「莫大な遺産を相続するのに薄情」で一貫していた。私も、正岡由希子のような善良な女性が実の息子に蔑ろにされているのには、理不尽さを感じていた。

この辺りは地域に住むお年寄りの比率がかなり高い。相続が発生すると古い家の立っていた大きな土地が売却され、分割された後で小さな新築が建てられる。家を守ってきた誰かが死ぬことで、少しずつ新陳代謝が進んでいる。

私の家も、そうした経緯でできた建売住宅の一つだった。

インターホンの音量が最大になっているのを確認したあと、学習部屋に戻った。

「ちょっと話があるんやけどええかな?」

それぞれ集中していたが、先に話しておくことにした。

「今日、みんなのために惣菜なんかを注文したんやけど、ここの家主の正岡さんがちょっと耳が聞こえにくくて、せっかく届けてもらっても受け取れへんかもしれへんねん」

生徒たちは食べ物に関する話題だと判断したのか、真剣に聞いてくれている。

「正午から十四時までのどこかで来はるんや。でも、誰もインターホンに出へんかったら、そのまま帰ってしまうんや」

生徒たちはちらちらとお互いの顔を窺いながら「それは困るな」と頷き合った。

「二時間、僕が席を外しても、しっかり集中できるって約束してくれたら、僕は確実に惣菜を受け取れるように、インターホンの前に待機できるんやけどな」

私は山本に視線を送った。

「ちゃんんとできます」と期待通りの返事が返ってきた。

田中が手をあげて「惣菜の種類が知りたい」と言い出した。

「レタス巻きと、とんかつと、オムライスに、ハンバーグあ

たり、好きそうな物を適当に頼んである」

生徒たちはわかりやすく喜んでいる。

「みんなを信用してもええか?」

全員が大きく頷いた。

「じゃあ、今日ちゃんとしてくれたら、明後日またネットスーパーに来てもらうようにする。今度はみんなのリクエストもきくようにするな」

田中がガッツポーズをしながら「やった」と言った。

私は喜ぶ生徒たちを微笑ましく感じた。中学受験をし志望校に合格する。志望校は成績や立地などの要因でそれぞれ違いがあるものの、ゴール自体は似たようなものだ。二百人ほどの定員の枠を奪い合う。結果は試験当日だけで出せるものではない。小学生の後半三年間でいかに努力を積み重ねられるかにかかっている。実力があっても当日体調を崩せば本領を発揮できないこともある。しかし、実力が備わっていないのに、当日だけスラスラ問題を解ける魔法は存在しない。

合宿の終わりまでには、過程がどれだけ大切かを理解してほしかった。

理解は顕在している必要はない。無意識下でもかまわないのだ。

正午になり、生徒たちにはおのおの昼食をとってもらうことにした。私は温めた焼きおにぎりを持って、インターホンの前に陣取った。

ありがたいことに、待機し始めて二十分ほどでインターホンが鳴った。

私はとにかく応答し、在宅を知らせた。

「ああ、正岡さんで間違いありませんね?」

少ししゃがれた声が聞こえてきた。

「祖母から食料品を頼んだと聞いてます。伝えますのでそのままお待ちください」

私はすぐに居間に向かった。外観からも広い家だとわかるのだから配達員も、出るまでに時間がかかるのはわかっているだろう。

私は正岡由希子を脇から支えながら、門の近くまで連れて行った。

「僕はここにいてるから、配達員に門の中に荷物を置いてもらうよう伝えて」

「置いてもらえばええんやね」

正岡由希子は笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと門へと近

づいていった。私は門の扉からは見えない位置に隠れて様子を窺っていた。

「まいどおおきに」

配達員の声は大きかった。

「今回、えらいたくさん注文しはったから、お一人や言うてたのに食べ切れるんか心配してたんですわ。そうしたら、お孫さんが来てはったんやね」

「違いますよ。さっきのは孫やのうて息子です」

「えっ、ああ、それは失礼しました」

配達員の声には戸惑いが混ざっていたが、上手く話を合わせている。

「しかし、こんなたくさんの食べ物、ほんまにもらってもええの?」

「えっ、まあ、お代はいただいてますんで」

「ほんまに、どなたか知らんけど、ありがたい。最近、たくさん贈り物が届くんです。お返ししなあかんと思いつつ、ついついそのままに」

配達員は「そうですね」と相槌を打っているが、声はトーンが低い。

「門の内側に置いといてください」

正岡由希子は、まだ私の出した指示を覚えていたらしく、ちゃんと伝えた。

「いや、結構重いですし、量も多いんで、玄関先までお持ちしますよ」

配達員の申し出を、正岡由希子があっさり受け入れてしまった。私はさらに身を縮めて木の陰に隠れた。

生徒たちは今頃昼食をとっている。出てこないようには伝えていないので、目撃される可能性もあった。まだ大きなニュースにはなっていないが、小学生が何人も一度に消息を絶ったのだ。そのうち報道される。後から事件を知って、配達員がこの家で見た子供たちと結びつけるかもしれない。

配達員は、少し襟の伸びた白いポロシャツと、黒い作業ズボンを身につけていた。背は高くないが、背中がやけに広い。両手にたくさんのレジ袋をぶら下げて玄関に向かう。

正岡由希子は歩くのが遅く大分離されていた。

庭の向こう側、屋敷の奥の方で、田中が廊下を歩いているのが見えた。

私は自分に注意をひこうと「手伝います」と後ろから駆け寄った。

配達員が振り返った。

「ああ、さっきの……お孫さんでええんやんな?」

私は笑顔で頷いた。

「そやな。正岡さんの息子さんなら、俺より年上でもおかしくないしな」

小声でブツブツ言うのが聞こえてきた。

配達員は「ほんまは玄関の中に入らんようにきめられてるんやけど、ここまで来たから、中まで運んであげるな」と日焼けした顔をほころばせた。

私は内心、早く帰って欲しいと思いながら「ありがとうございます」と笑顔を返した。

「あんなあ、ちょっとしたお節介やけど、お父さんらにおばあちゃん、ちょっと物忘れが激しいかもしれんって、教えてあげた方がええと思うよ」

「そうですね……」

「火の元とか、特に注意が必要やで」

わかっているから、正岡由希子の分の食事は私が用意しているのだ。

配達員は、荷物を上がりかまちに並べると、すぐにきびすを返した。

まだ玄関までたどり着けないでいる正岡由希子に「次のところに行かんとあかんから、これで失礼します」と挨拶をすると、急ぎ足で門から出て行った。

私は、正岡由希子を居間まで連れて行き、テレビの前に座らせた。リモコンを向けスイッチを入れるとお昼のバラエティ番組が流れ始めた。他のチャンネルに変えてみたが似たような雰囲気だったので、それ以上は変えなかった。

「後でおかず持ってくるし、テレビを見て待っといて」

正岡由希子の分の幕の内弁当も頼んであった。

数回にわけて届いた食材を台所に運ぶ。

生徒たちはまだ昼食の途中だった。今日もカップ焼きそばを分けて食べていた。台所からいろいろなソースの匂いが混ざった異様な匂いがする。

「届いた惣菜は夕食でええな?」

「僕らは結構、お腹膨れてるやんな?」

「うん、食べ過ぎたくらいや」

「ずるいな。僕は焼きおにぎりしか食べてへんのに」

山本が「何か食べたいものありますか? 僕が用意します」と声をかけてきた。

「そんな気、使ってくれんでええよ。自分のことは自分で

するし。でもありがとう。僕のことより、時間があるなら一つでも多く漢字を覚えてや」

生徒たちは勉強することを嫌がらない。親に黙って合宿に参加すると決めた時点で、勉強漬けの日々を覚悟したのだろう。

私たちは最高に密度の濃い一週間の過程をやりきり、結果を出す必要があった。

生徒たちは私が運び込んだ惣菜の数々を目にし、わかりやすくやる気を出してくれた。

午後からの時間は、かなり充実していた。それぞれ積極的に質問をしてくれたから、私は五人の間を何度も行き来した。

二日目も、生徒たちに薬を与えた。インターネットでの買い物は、みんなが寝た後でないと落ち着いてできないからだ。

褒美が食べ物ばかりでは、そのうち効果が薄れる。だからといって漫画のような妨げになる物を用意するわけにはいかない。小学生が自分で買ったと言って、家族から怪しまれない物を探す必要があった。私は文具がとにかく好きなので、美しいデザインのペンがもらえればかなりテンションが上がる。持ち物にはそれぞれ好みがあるから選ぶのは難しかった。結局、通販サイトで『お取り寄せグルメ』をみつけ、高級なゼリーとプリンの詰め合わせを注文した。合宿の終盤までには届くので、間に合う。

三日目は、いったん現実を知ってもらうために、模試と同じ形式をとった。三年前の実際の入試問題を時間を計って解いてもらった。私も生徒たちと一緒に問題を解いた。

私は早く解答を終えていたので、五人の様子を窺っていた。キッチンタイマーから電子音が鳴り始め、最後まで苦戦していた井上が大きくため息をついた。

五人と私とで、解答用紙を回し採点をはじめる。

「あっ、やばい、満点や」

私の解答用紙を採点していた中村が声をあげた。

「そりゃ、先生やもん、当然やろ」

「えー、でもすごいやんか」

私は鼻を掻きながら「実は、半年前に一度解いたことがあって、答えを全部覚えていたんやんか」と種を明かした。

「答えを全部覚えとるんが、すごい」

生徒たちは羨望の眼差しを向けてきた。私が問題を用意

したのだから、いくらでもずるができるのに、すっかり信じ切っているのがおかしく思えた。

順調に進んでいるかに見えていた合宿だったが、その夜、ハプニングが起こった。みんなが寝た後、約束していたネットスーパーの注文を済ませ、私も眠りについた。電気を消したあとに、紙をこするような音が聞こえてくるのが気になって、なかなか寝付けなかったのだ。

なかなか音が止まらないので堪えきれずに明かりを点けた。音の正体を知った途端、私は思わず大声をあげていた。

ゴキブリが障子を這っていた。

殺虫剤は用意していなかった。叩いて殺せるわけはない。私はとにかくどこか他の部屋に行って欲しくて、ゴキブリに向かってタオルケットを振り回した。薬の影響で、誰も目を覚まさない。正岡由希子も当てにはできない。

タオルケットの端が障子の桟にあたってガタンと音が出た。そのせいで、ゴキブリが飛び立った。

「ひいっ」

短く悲鳴を漏らし、とにかくゴキブリから遠い場所に移動して蹲った。

結局私は部屋の明かりも消せず、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

四日目の朝、寝不足もあいまって私はすっかり体調を崩していた。食欲がわかず、朝食もとらなかった。五人は、食パンに好きなジャムを塗って食べていた。私の顔色が悪いのを心配して、山本が声をかけてきた。

「先生、大丈夫ですか?」

「本調子じゃないけど、そこまでやないよ」

そう答えたが、生徒たちの心配はおさまらなかった。

「僕らちゃんと勉強できるで、先生は少し横になったらええやん」

「そうやなあ」

サボる生徒はいないとわかっている。しかし、わからないところを教える私がいなければ効率が落ちてしまう。しかし、この体調で無理にこの場に残っても、効率があがるはずがなかった。

「みんなありがとう。午前中だけ休ませてもらうな」

私は勉強部屋に五人を残し、寝室に戻った。

布団の中に入り、自己嫌悪に陥った。たかがゴキブリ一匹のために、綿密に立ててきた計画が台無しになりそうだった。たった七日間しかない時間のうち、下手すると一日

分潰してしまう。

私は無理矢理目を閉じた。脳がゆらゆら揺れるような不思議な感覚があった。頭の中で立方体がくるくると回る。なぜ、一部を切り取った立方体の容積を導き出す必要があるのか。

私はほんとうに、すべての過去問に飽き飽きしていた。だから、楽しめる何かを求めたのだ。塾の方針ではなく私が思い描いた方法で、誰かの成績を伸ばす。

中学受験を成功に導く。それだけで、誰かの人生を良い方向に変えてしまえるのだ。

私はいつの間にか眠っていた。目が覚めたときには、とくに正午を過ぎていた。

「あっ、ネットスーパーが来るんやった」

慌てて布団から出て、居間に向かった。いつも通りテレビを見て過ごしている背中に「スーパーの人、来はった?」と声をかけてみた。

「誰か来はるん?」と的外れな回答が戻って来た。

私はいったん、生徒たちの様子を見ることにした。台所から声が聞こえてくる。昼食をとっているのだろう。私も朝から何も口にしていないので、空腹を感じていた。

「みんな、心配掛けたけど、なんか回復したわ」

台所の戸を開けてすぐ声をかけた。

「あっ、先生。これ、受け取っておきました」

山本が誇らしげに報告してきた。私は机の上に置かれたレジ袋を見て血の気が引いた。

「配達の人となんか話したんか?」

「挨拶をして質問に答えただけです」

私の表情から察したのか、山本のトーンが下がった。

「正岡さんは? と聞かれたので、テレビを見ていますとそのままを返しました」

「それだけやったか?」

「あとは、孫かと聞かれたので、友達だと返しました」

「疑ってなかったか?」

山本は「多分……」と頷いた。

「ごめんな、僕が体調を崩したんがわるかったのに、責めて取り繕ってみたものの致命的なミスに思えた。

西村が「先生、俺の好きな物たくさん頼んでくれたみたいで、ほんまありがとう」と唐突に声をあげた。途端に、ぴりついていた空気が少し和んだ。

表向きは普段通りに振る舞いながらも、私は不安で仕方なかった。

いつ警察官が訪ねてくるかもわからない。ただ、不安に捕らわれて計画通りに進めないのは悪手だ。もう引き返せないところまで来ているのだから、やり遂げる以外の選択肢はない。

私は余計に気を引き締めて、生徒たちの指導にあたった。

夕食はネットスーパーで頼んでおいたオードブルをメインに、おのおのが好きな冷凍食品を解凍して食べた。

「今日のはちょっとしんどかった」

コーラを飲みながら、田中が本音を漏らした。

「午前中、僕のせいで潰れたから午後にしわ寄せがあったよな」

「僕は平気でした」

「いや、なんか、七日間の合宿がもう半分過ぎてるって思ったら、ちょっと焦ってしまって。明日はちゃんと気をつけるわ」

私はたしかに焦っていた。成果があがるかどうかもそうだが、それよりも、合宿を中断せざるを得なくなるかわからなかったからだ。日程を前倒しにする必要に駆られてしまったのだ。

生徒たちに優しく接するその裏で、私は正岡由希子に罰を与えていた。

インターホンに気づかず、山本に応対させたことに対する罰だ。

いつもなら私が夕食を用意し居間に運ぶのだが、しなかった。本人は夕食を食べたかどうか、いつもわかっていないのだから、無駄な行動だとはわかっている。それでも何かしてやらなければ気が収まらなかった。

そして、四日目が終わった。私は五人が薬で眠りについたのを確認したあとで、電気を消し布団に入った。


息苦しさを感じ、目を覚ました。

何かが焦げるにおいがしている。私は手の甲で口元を押さえ顔をしかめた。生徒たちはぐっすり眠っている。私以外は睡眠薬を飲んでいるから簡単には起きない。

嫌な予感がして部屋の外に出た。辺りには煙が立ちこめていた。

廊下の先、台所の位置で、真っ赤な炎が上がっていた。何かが爆ぜる音が、続いている。一度大きく弾けた。

体を包む空気は熱いのに、悪寒が走った。

「酸素がなくなれば、火は消える……」

理科で習った知識では、火を消し止められない。ここは古い木造住宅で、燃料には事欠かない。

「煙の性質は……」

私は実際に吸い込むまで、煙が熱いことを知らなかった。

目に染みて、勝手に涙が流れ始めた。

火を消せないのであれば、逃げるしかない。

まず、廊下に充満している煙を少しでも減らそうと、腰高の窓の鍵に手を伸ばした。いつもなら冷たいはずの鍵が熱を帯びていて、私は思わず一度手を引いた。しかし火傷するほどではなかったので、気を取り直した。本当は寝室より火元に近い方の窓も開けたかったが、わざわざ近づくのは危険だと判断した。

私は寝室に戻って「みんな起きろ!」と叫んだ。誰も反応しない。一番近くに寝ている田中を布団ごと大きく揺さぶった。

「頼むから、起きてくれ!」

次々と布団を剥ぎ取り、肩を揺さぶり頬を叩く。

炎の気配が近くまで迫っていた。

起きないのであれば運び出すしかない。庭まで出れば、焼け死なずに済むはずだ。生徒たちは私と同じ年齢ということもあり、体の大きさが変わらない。中村に至っては、私より背が十センチも高かった。

それでもやるしかなかった。生存確率を上げるために、一番体重の軽い山本から始めた。両足首を掴み引っ張った。弾力のある敷き布団に足を取られ尻餅をついた。しかし、痛みに構っている余裕はなかった。

私は、睡眠薬を飲ませたことを後悔していた。

夜に脱出を試みる生徒が出そうで取った対策だった。逃げ出せば今自分たちが神隠しに遭った小学生として全国に広められている事実を知ってしまう。自由に離脱して良いと言いながら、誰も逃す気はなかった。計画を中断されるのだけは、絶対に避けなければならなかった。

さすがに火事が起きる想定はしていなかった。

やっと、山本を廊下に出せた。しかし、それだけでは足りない。縁側から庭に下ろす必要がある。ひとまず山本を火元からもう少し離しておこうと考えた。

顎の辺りにじっとりとかいた汗を手のひらで拭う。手に

すすがついていた。

正確な時間はわからないが、真夜中過ぎだとしてもこれだけ煙が上がれば誰かが気づいてくれる。そのうち消防隊員がかけつけてくれるはずだ。

次に軽そうな井上を出す前に、最後になる中村の頬を叩いて起こそうとした。やはり起きない。

私は「くそっ」と言いながら、中村の脇腹に蹴りを入れた。足に痛みが走る。

舌打ちをした後、井上の足首を掴んだ。

『火事場の馬鹿力』は確かに存在していた。しかし、小学生の出す馬鹿力はたかが知れている。

空気が薄くなっているのか、息が苦しかった。このままでは私も逃げ遅れる。

正岡由希子の寝室は台所と近い。もう火に呑まれているかもしれない。

何を優先すれば被害を抑えられるだろうか。

井上を廊下に出したところで屋根よりも高く燃えさかる炎を目の当たりにした。暗闇が炎の赤をより鮮やかに輝かせる。火の粉が庭にも降り注いでいた。

私は掴んでいた井上の足を放り捨て窓枠を越えて庭に出た。小石が足裏に刺さる痛みを無視し、庭の中央にある池に飛び込んだ。

池の底のぬめりで滑り、頭まで池に浸かった。全身が冷たい水に包まれ、外の音が遮断された。私は炎から逃れられた気になった。

池の縁に手を伸ばし、起き上がった。このまま池の中にいれば私だけは助かるはずだ。

必死で救助を試みたところで、きっと全員は助けられない。私が順番を決め、救う命と見捨てる命を選別するのだ。

それならば、全員を諦めるのが正しいのではないだろうか。

池の中から寝室を見上げる。何も知らずに布団に横たわる三人の姿が脳裏に焼きついていた。

火元である台所はすっかり焼け落ちている。黒く炭化した柱は屋根瓦に耐えられなくなり折れていた。あと二部屋燃え広がれば、寝室まで炎が届いてしまう。生徒たちが炎に呑み込まれるまでの時間はどれほど残されているだろう。

私が大人であれば、一人ずつ抱えて運び出せた。私はあまりにも無力だった。

遠くから消防車のサイレンが聞こえはじめた。次第に大きくなっている。救急車のサイレンも聞こえた。

私は拳を握りしめて立ち上がった。

まもなく消防隊員が到着し、私たちはきっと救出される。

それならば、私がみんなを助けようとしていた事実を見せつける必要がある。救出に尽力したと認められれば、塾仲間を唆したことに対する罰をいくらか軽くしてもらえるかもしれない。

私は寝室に戻り、井上の足を再度持ち上げた。廊下で少し引きずったあと、そのまま寝かせて部屋に戻った。残る三人を無造作に引きずって、寝転がっている角度をバラバラにし、努力の痕跡を残す。

消防隊員が敷地内に入ってきたのがすぐにわかった。怒号が飛び交っている。正岡邸にだけ、雨が降り始めた。

私は窓から身を乗り出した。

「助けて! みんなここにいます! ここです!」

涙を流しながら、できる限りの声を振り絞る。咳き込みながら何度も声を上げた。


◆◆◆

僕は、原稿を概ね完成させ、清水宛に送った。

『ラストについて相談がしたい』というメッセージを添えた。

しばらく経って清水から返事が来た。

『直接お会いしましょう。その時に意見をお伝えします』

清水の体験そのものを書いたわけではない。しかし、清水の本質を描こうと試行錯誤を重ね、かなり良い出来になったと自負している。

それでも清水から直接意見をされるのは、正直にいうと怖かった。

前に訪れた時は冬だったが、今はもう汗ばむ季節だ。あの日と違い、施設内の湿度も高い。

僕の靴音が廊下に響いていた。

受付を済ませ、硬い椅子に腰掛けて呼ばれるのを待つ。検査結果を待つがん患者になった気分だった。

自分の書いた小説の内容を思い返す。

書きながら、僕自身があの合宿に参加している感覚になった。清水の過ごした夏を、追体験したのだ。

面会室に通され、またアクリル板越しに清水と向き合った。

「少しお痩せになりました?」

清水が心配そうなそぶりで聞いてきた。

体重計に乗る習慣がないため、意識していなかった。執筆に集中するあまり、ほとんど食べ物を口にしない日もあった。当然の変化だ。

清水の方は、作業着が夏用になっているだけで、ほとんど変わっていない。

「そちらはお変わりないようで」

「はい。それは規則正しい生活をしておりますので」

面会時間は限られているので、早速本題に入った。

「まず、非常に楽しませていただきました。あなたが私をどう見ているのかがよくわかりましたよ」

清水から『深読み』されるのは覚悟していた。

「僕をどう感じたかではなく、小説がどうだったかを教えてもらえますか?」

清水はわずかに視線を逸らし「小説としては……」と口元に笑みを浮かべた。

僕は息を殺しながら清水の言葉を待った。

「少しアンフェアではありませんか?」

「叙述トリックなので、あんなものでは?」

「許容範囲ではあります」と清水が頷いた。

僕は少し肩の力を抜いて、一度ゆっくり息を吐いた。それから空気をしっかり体に取り込んだ。

「相談したいとおっしゃっているのは結末ですよね?」

僕が切り出す前に、清水から質問された。

「はい。着地点といいますか、落とし所ですね」

清水は顎をさすりながら視線を上に向けた。

「つまりは、私たちがどうなったかですね」

単純にそれだけではなかったので、首を傾げた。

「『先生』があなただったことを明かすタイミングもあれで良いのか迷っています」

清水が「だから最初に、アンフェアだと言ったんです」と微笑んだ。

「あなたは少し私のことを買い被っていますね」

「どの点がでしょうか?」

「子供の頃の自分を思い出してみてください。小説の中に描かれている私よりも、ずっと浅はかで感情的だったでしょう?」

「僕とあなたの幼少期が同じだとは思えません」

「おっしゃるように、全く同じではないでしょう。しかし、今の私と子供の頃の私もまた、同じではありませんよ」

僕は同意できなかった。清水から聞かされた『罪』は、今も変わらず残る『支配欲』により犯したものだと思えるからだ。

人に害をなすほどの支配欲は、生まれた時にはすでに持っているのか、何かをきっかけに獲得するものなのか。あるいは、大なり小なり誰もが持ち合わせていて、稀に強大なまでに育ててしまう者がいるだけなのか。

僕には結論が出せていない。それこそが、まだ着地点を決められていない理由だった。

「私はあなたほど支配欲の強い人物に会ったことがありません」

清水が意外そうな顔をした。

「本当ですか?」

「はい。間違いなく」

「あなたも十分に支配欲が強いように見えますが、自覚がないのですね」

僕は不快感をあらわにした。

「そう怒らなくても。小説を書く時点で、支配欲が強い気がしますよ。登場人物を意のままに操り、読者を翻弄しようとしているのだから」

僕は「そういうことですか……」と小さく頷いた。

「しかし、小説家として、あなたはエス気が足りていない気もしますね」

僕には残酷になりきれない自覚があった。痛いところを突かれ、奥歯を噛み締めた。

「なぜ、作品の中の子供たちが全員助かる方向に舵を切ったのですか? 本当は私以外、全員死んでしまったのに」

「必ずしも、事実に即さなくても良いのでは? あなたはノンフィクションではなく、小説を望んでいましたよね」

「作中の犠牲者を減らすことに何かメリットはありますか? 明らかに悲劇性が損なわれます」

「読者のすべてが凄惨さを求めるわけではありません」

清水は目を閉じながらゆっくり頷いた。

「ハッピーエンドを望む読者は当然います。しかし、そういう人たちがミステリを好むと思いますか?」

清水の言葉は正しく聞こえる。

「よく考えてください。あなたがなぜ、その展開を選んだ

のかを。読者のためにですか? それとも……?」

僕は何も言い返せなかった。どこかに逃げがあったのは確かだ。知れば知るほど、清水のせいで命を落とした六人が気の毒になった。特にまだ幼い小学生には深く同情した。

「僕の自己満足であることは認めます」

清水は微笑みながら「実にあなたらしい。その素直さは尊敬できます」と言った。

褒められているわけではないとわかった。

「しかしあなたは、『良い人』ではなく『小説家』でありたいのでしょう?」

清水の指摘は的を射ていた。

「仮に、今のまま子供たち全員が助かったとして、その後の私はどうなると思います?」

「小学生のしでかしたことですから、罪には問われないかと」

「同じ塾に通う子供たちを唆して家出をさせ、あげくの果てに、死んでもおかしくない危機を招いたんですよ? 実際、皆死にましたし」

清水のしたことは、勉強合宿という名の軟禁だ。出火原因こそ清水にはないが、誰の罪が一番重いかと問われれば、迷わず清水と答える。

「実際は私一人が生き残り、自分に都合の良い筋書きを大人たちに話したから、残りの子供時代を順風満帆に過ごせたのです」

ふと、『死人に口なし』という言葉が浮かんだ。もし他の子供たちが助かっていたとしたら、清水が首謀者だと露見しただろう。

「まさか」

清水はゆっくりと顔を左右に動かした。

「さすがに口封じはしていません」

僕はなぜか、ホッとしていた。清水をそこまでの悪人だと思いたくなかったのかもしれない。

「あの夏の事故以来、私は亡くなった人たちへの贖罪のために生きてきました。弁護士になったのもその一環です」

清水が破滅に追い込んだ相手は、すべて『法で裁ききれない』者達だった。対象の中には清水自らが弁護人となり無罪を勝ち取った者までいた。

SNSを巧みに使い世間を煽動し、その者たちが築いてきた信用や財産を奪い、絶望へと追い込んでいった。

清水が『私刑』への道筋を立て、葬った対象は二十人を超えていた。

「話が逸れましたね。いっそのこと、私も含めて全員を死なせてしまうのはいかがですか? 真相を語る者がいなければ、当時世間を騒がせた『京都・神隠し事件』は迷宮入りとなります。それはそれで面白いと思いませんか?」

『読者だけが知る真相』として書くのは悪くない。しかし、『真犯人』が生き残ることで、読者に不安を残せる。

「どちらにせよ、私はネタを提供しただけで、この小説を書き上げるのはあなたです。ただ一つだけ訂正したい点があります」

清水が真顔になった。

「当時の私は、ほんの少し周囲より勉強ができるだけの平凡な子供でした。くだらない優越感に浸るために、数人の落ちこぼれを唆し、救世主の気分を味わったにすぎない。夏休み最後の模試で、みんなで良い成績を出せば許されると本気で思っていました。火事が起こる想定はしていなかった。一人だけ生き残り、保身に走って、精神的なショックで記憶が曖昧なフリをした。浅はかで卑怯な子供だったのです」

僕は清水を、同級生に自分のことを『先生』と呼ばせる支配的な人物として描いた。見た目だけが年相応だが、大人としか思えない思考力を持つ子供として。

しかし、子供だからこそ起こしてしまった事件だとしたら、根底が覆る。

「タイトルは『おもちゃの王様』あたりが相応しい気がしますね。所詮は、子供の火遊びが運悪く悲劇を招いただけの話なので」

僕は清水の言葉を聞いて、身震いした。

清水は決して早熟な子供ではなかったのだ。

子供だけが持つ残酷さをそのまま残した怪物が、目の前にいる。

僕はすべてを一から書き直さなければならないと感じた。脳裏にあの日、あの夏の景色が浮かび、子供たちが動き始めた。

アクリル板の向こうで清水が「きっと、良い小説にできますよ」と微笑んだ。


(了)

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