黄港佑『虫めづる姫君』
老いた男が蝶を見ている。
美しい蝶だ。陽に透けた薄玻璃が灯す虹のように繊細な羽で、ひらりひらりと揺らめいている。どこへ行くのかと思い、知らず目を奪われるが、どこへも行かない。月明かりの下、冴えた光を薄絹のごとく帯び、あえかな羽ばたきをただ繰り返すばかりである。それは気ままな遊歩というより、絡みつく糸に囚われて悶えるさまによく似ていた。
それでも、男はやはり魅入られたように、その姿から目を離せずにいる。
と、果然、男の胸裏に稚い日々の情景が込み上げてくる。
遠い、遠い、昔の記憶だ。弓箭の者たちが東国に柳営を構えるよりはるか以前のことである。だが、わずかばかりも褪せてはいない。ことあるごとに、幾度も回顧るからであろう。蝶を見ると、いつも決まってその時分のことが思い出されるのだ。
――そうでなくとも、今宵は彼女が偲ばれるというのに。
じわり、と目の端が滲んだ。隔たれた歳月の靄が胸裏から除かれるにつれ、五月雨のごとく切なさと懐かしさはその水位を増し、今にも体から溢れそうになる。
やがて、男は瞬きをした。
彼女は三条の邸に住まう姫君だった。
いわゆる上級貴族の家々が並ぶ左京のその一帯にあってなお、まったく見劣りをしない結構な邸だったこともむべなるかな――その当時、彼女の父は大納言である。望んで手に入らない品は稀にさえなかったことであろう。
当然、邸には側仕えの侍女が数多くいた。貴人の身の回りの世話を任されるそのような侍女を女房という。殊に上級貴族の邸に出仕する女房というのは、どこにでもいる下男や下女と異なり、同じく貴族の生まれであることが多かった。つまり有識で、文字も扱うことができる。側に仕えさせる者として申し分ないということだ。
普通に考えれば、何不自由ない境遇である。
しかし、彼女は普通ではなかった。
煌びやかな衣にも、芳しい香を焚くことにも、一向に見向きすることはなかった。果たして、彼女の関心はもっと別のところにあった。
虫である。
彼女は専ら虫を好んだ。
とりわけ――毛虫のような、むくつけき見目であるほどよく好んだので、女房たちはそれを不気味がって怯えた。いかに大納言の邸といえど、虫を扱える女房はひとりとしていなかった。いや、京中を探しても見つけることはできなかったかもしれない。
そこで、彼女は賤しき男童を邸に集めた。
いわゆる庶民の子である。雑人や市人の童ならば虫を厭わない。彼女はそのような下賤の童どもを遣い、虫を集めさせることにしたのだ。
彼女はそのための褒美を惜しまなかった。甘い唐菓子や遠国の珍品、時には上等の反物まで、虫を献上した童には様々な物が与えられた。それらを目当てに、忽ち多くの童が三条の邸へ足を運ぶようになったことは言うまでもないだろう。
男もかつては、そうした童のうちのひとりだった。
だが、いつしか男の目当てはそれだけではなくなっていた。
面映ゆい話である。思慕と呼ぶには未熟で、憧憬と呼ぶにはあまりにも拙い。淡い幼心がその所以だった。有体に言えば、彼女の喜ぶ姿を見るのが、他のどんなことよりも嬉しく感じられるようになっていたのだ。
かくして、男はますます熱心に虫を集めた。
珍しい虫を求めて山深くに分け入ることもあった。彼女は初めて見える虫に自ら案じた名を与え、その徴を仔細に見定めることをよく愉しんだからである。
また、卵を見つければ直ちに邸まで持って走った。彼女は虫が姿形を変えながら育つその過程に、ひときわ強い関心を示したからである。
あるいは、虫が採れない日も時が許せば三条へ向かった。彼女は虫と同じくらい、虫について語り合える話し相手を望んでいたからである。
だが、彼女を最も喜ばせるのは――やはり毛虫だった。
彼女は滅多に感情を顔に出さない。しかし、毛虫を目前にした時だけは、いつも凛々しい目元をわずかに緩めて、優しげな眼差しを宿した。常に何かを憂うように表情の少ない頬の上には、そよと春風が撫でたような温かみのある色が差した。平素は毅然と引き結ばれて隙を見せぬ唇がうっすらと綻び、その合間に歯が瞬くこともあった。
その微笑みを目にするたび、男はひそかに頬を火照らせたものだ。
それゆえであろうか、男の胸裏に込み上げる情景の中で、何よりも鮮烈に焼き付いているのはその微笑みである。記憶の中で目にするだけでさえ、男は今でも顔が熱くなるように感じる。だが、その微笑みを思い出す時、男の中に生じる感情はそれだけではない。
その微笑みを思い出すたび、いつも決まって──
モウ、と牛が鳴いた。
途端、引き戻される。過去から現へ。
男は大儀そうに首を振り、傍らの牛を見やった。
まるで、男を諫めるかのようであった。それ以上、思い出してはならぬと言われたような気がしたが、牛は牛に過ぎない。ただ欠伸をしただけのことであろう。普段と相変わらぬ呆けた面構えをしている。
目を戻すと、そこにもう蝶の姿はなかった。
ぽつねんと空を仰ぐ。烈しくはないが風の絶えない夜だった。細い煙の筋がたなびいている。刳り貫いた穴のような月が男を見下ろしていた。
いったい、何を悚れているのだろう。
男はゆっくりと目を閉じる。静かに微笑む彼女の姿がそこに浮かぶ。すると、在りし日の淡い幼心が蘇ってくると同時に――背筋がぞっと冷たくなる。
ああ、まただ、と男は思った。
それがなぜなのか、男には皆目わからない。
わからないが、いつも必ず、その二つの感情が去来する。
幼心は身に覚えがある。彼女の微笑みを目の当たりにして顔を赤くすることは、幼少の時分、実際に幾度もあったことだ。
しかし、もう一つは違う。幼少の時分、その微笑みを前にして、背筋が冷えたことなど一度もなかった。あまつさえ、それを悚れるべき所以は知れず、男は答えの出ない問いを持て余したまま途方に暮れる。
いったい、何を悚れているのだろう。
男は再びそう思った。かつては何より嬉しく感じていたその微笑みを、今になって悚れるのはいったい何故のことであるか。
男にはそれが不可解でならなかった。勿論、今さらそれを知ったところで、きっと意味はない。年甲斐もないと笑われたら、返す言葉もない。
だが、それでも男がそう思うのは、その情景をかけがえのないものとして、今日まで大切にしてきたからにほかならなかった。
騒めくような葉擦れの音が、にわかに大きくなった気がした。
男はぶるりと身を震わせる。背に汗が浮いている。煤の匂いが鼻につく。風に運ばれてくるその匂いに、男は悲しげに顔をしかめた。
「いなごまろ」
寒空を弾く弦音のように澄んだ低い声が、男を呼んだ。
男をそう呼ぶのはこの邸の姫君だけである。彼女の前でしか通じない名だ。
「いなごまろ、大事ないですか」
「取るに足りません、このくらい」
男は幼さの残る声でそう答え、うろに足をかけた。
大きな邸の庭木は、相応に大きい。見上げると足が竦みそうだった。
本当は、かように高い木に登るのはこれが初めてである。しかし、そのことを悟られまいとする一心で男は足を動かし続けた。彼女に臆病だと思われたくはない。小さな枝ならば折って構わないと言われている。目当ての枝まで、あと少し――
やっとのことで、それに手が届く。
ほっと安堵の息をついた。その油断がいけなかったのだろう。
ふ――と体が軽くなったかと思うと、空の碧さが遠ざかっていく。次の一瞬、衝撃に少し遅れて、背中に痛みがやってきた。頭上に茂る青い枝々のうちの一つを見て、ああ、あそこから落ちたのか、とやけに平静な心で思う。
と、途端に檜皮葺の屋根の下が騒がしくなった。
けがはないか、どこか傷めていないか、と彼女の側に控えていた女房たちが一斉に声を上げたのだ。その一つ一つがひどく切迫した響きを孕んでいる。下賤の童のために、女房たちがかくも取り乱すことなどそう滅多にあることではない。
それらの声々を落ち着かせるように、御簾の向こうから再び低く澄んだ声がした。
「……大事ないですか、いなごまろ」
「……取るに足りません、このくらい」
男は強がってそう答えた。
だが、よく見れば、その口許には隠し切れない苦渋の色が滲んでいる。それはじんと痛む背中ではなく、彼女に失態を見られたことによる羞恥のためだった。
「切ったところはありませんか」
「少し打っただけで何ともありません」
彼女が短く応じると、女房たちの声も止んだ。
男は居た堪れず、ますます虚勢を張る。まるで平気だという顔をして、なるべく大股で御簾の前まで歩いた。
「採ってまいりました」
男は握りしめた枝を掲げて言う。
此方からは見えないが、御簾の向こうからは此方の様子が見えているはずだ。
しかし、彼女は躊躇うことなく御簾を巻き上げて陽の当たる簀子――庭にせり出した板張りの廊下――の端まで降りてきた。
「よく見せてください」
高欄から身を乗り出す彼女に、男は枝先の葉を裏返す。菖蒲のように肥えた毛虫の姿が露わになる。それを見て、彼女は静かに微笑んだ。
男はとっさに顔を伏せる。
まるで全身の血が顔に集まってきたかのようだった。叶うなら一瞬でも長く目にしていたいのに、その微笑みを前にするといつもこうだ。顔を赤くしていることを彼女に知られたくはないから、こうして俯いているしかない。すべては、胸の最奥から込み上げるこの止めどない感情のせいに違いなかった。
それは――悚れとは似ても似つかない、あどけない喜びの奔流である。
「おやめください」
すると、彼女のさらに後ろから別の声がした。どこか癇癪めいた甲高い声だ。
「そう妄りに簾からお出になるものではありません」
衣擦れの音がして、彼女が体の向きを変えたのがわかる。男は盗み見るように、少しだけ顔を上げた。屋根に切り出された影の下で、ひとりの女房が険しい顔をしている。案の定だ。男の知る限り、彼女にかような言い方をする者は古くから仕えていると思しきこの年配の女房しかいない。
松来と呼ばれているところを聞いたことがある。
「もう少し恥じらいをお持ちくださいといつも申しておりますのに」
「……それがどうしたというのです」
「はしたない行いはおやめくださいと申し上げているのです」
「ですから、それがどうしたというのです」
彼女の声遣には取り乱したところがまるでない。男はさらに顔を上げた。そこにもう微笑みの跡はなく、彼女の横顔は常と等しく憂いを帯びている。
「ここには其方らといなごまろしかいないのですよ」
「それはそうですが」
「なれば、女人や童子に見られるのがはしたないと言うのですか」
「そうではございませぬ」
「では、何を気にしろというのです」
年配の女房――松来は言葉に詰まった。
この邸ではしばしば見かける光景だった。松来が口を開くと、二人はいつも諍いになる。成り行くところもいつも同じ。彼女の語る言葉の前に、松来は口を噤んでしまうのだ。
彼女に言わせれば、松来の言うことは筋の通らぬことばかりだという。
「ですが、御身もいよいよ――」
それでも絞り出すように、松来は何か言いかけたが、その声は狙いすましたように風にかき消された。
果たして、あとには密々と囁き合う声だけが残る。これもいつものことだった。諍いを遠巻きに眺めていたほかの女房たちが、一斉に鶯語を始めるのだ。
中には、憚りなく奇異の目を彼女に向ける者さえいる。
だが、その衆目の中にあっても、彼女はまるで動じていない。男はその傍らにいるだけで意気地なく狼狽えてしまうというのに。
「ここでは落ち着きませんね」
彼女はやがて仕方なさそうにつぶやいた。そして、踵を返して引き戻っていく。薄染の衣をまとった後ろ姿が影と溶け合い、束の間、男は目のその輪郭を見失う。
「来よ」と言われているのだ。
男は弾かれたように土を蹴り、その背中を追った。
けらお。
あまひこ。
いなかたち。
いずれも虫にちなんだ名だ。彼女は虫を集めさせる男童に、それぞれかような名を与えた。いぼこ。ひきまろ。みみずひこ。すべての童に異なる名がある。いなごまろというのも、そのうちの一つだった。
多く集まる日もあれば、そうでない日もある。
その日は、男のほかにはひとりの童もいなかった。
「大きな虫籠が要りますね」
彼女は言った。御簾と襖障子で遮られ、外からは覗けない部屋である。女房たちは、この部屋の中には決して入って来ない。
「今朝、下げさせた虫籠がありましたね。もう一度あれを持ってきてください。何しろとても大きな毛虫ですから」
彼女が障子の向こうへそう声をかけると、悲鳴のような返事の後、逃げ出すように人が離れていく気配がする。
一方、男はその言葉を聞き、むくむくと気が逸るのを自覚した。
「……先頃も大きな毛虫が見つかったと聞いておりますが」
彼女は目の高さまで持ち上げていた枝を少し下げて言った。
「先頃というと」
「けらおが見つけてきた毛虫のことですか」
「ええ、どうでしょう」
男はぐっと身を乗り出す。
「どちらが大きいと思われますか」
すべては後から耳にした話である。
男が母の看病や弟妹の世話に追われ、この邸を訪ねる暇に恵まれなかったその日、彼女からけらおと呼ばれている男童が、目を瞠るほど大きな毛虫を捕まえてきたそうだ。何でも、折悪しくそれを間近で見てしまった女房が、その大きさに驚いて腰を抜かし、しばらく足が立たなかったほどだという。
男はそれを聞いて無性に悔しくなった。
必ずや、けらおより大きな毛虫を捕まえたい。そして、それを彼女に認められたい。男はこの頃、そのことばかり考えていたのだ。
「さあ、比べてみなければ」
彼女が淡々とそう答えると、男はさらに続けて言う。
「さすれば、比べていただきたく」
「それはできません」
「なぜです。先頃の毛虫を入れたのは、どの虫籠でございましょう」
「ここにはもうありません」
「では、どこに」
「今、持って来させているところです」
男は勢いを失い、ぐるりと首を巡らせた。
まるで道に迷ったかのように、部屋の隅々まで目を走らせる。
この部屋の異様な様相として、調度と呼べるような物は一つも見当たらない。代わりに、所狭しと並べられた大小様々な虫籠――虫籠、虫籠、虫籠――
彼女は集めさせた虫をそれらに入れて、この部屋に置いているのだ。もう何年も前から、この部屋の有様はずっとこうだと聞く。
それゆえ、女房たちはこの部屋に入ろうとしないのだ。逆に言えば、彼女が毛虫を入れたまま、虫籠を部屋の外へ置くとは思えない。それがやがて女房たちの目に触れて、無用な騒ぎとなることは自ずから明らかだからである。
彼女としても、そのようなことは望むところではないだろう。
しかし、それならば、先頃の毛虫を入れた虫籠はどこへ消えたのだろうか。いや、それは彼女が教えてくれた。今、持って来させているという。つまり、今朝下げさせた虫籠というのがそれだ。男はそこまで考えてようやく、あることに思い至った。
「……いつのことですか」
「昨日です」
彼女はやはり淡々と言った。
「眠るように動かなくなっていました」
つまり、けらおが見つけてきた先頃の毛虫はすでに亡(う)せたのだ。
思いがけぬことに戸惑い、男は何を言えばいいのかわからなくなる。
一方、彼女は男のその様子を見て、諭すように言葉を続けた。
「ですが、そう嘆くことではありませんよ。たしかに、蝶になるまで永らえられぬ毛虫は少なくありませんが、それを悲しいことだと決めつけることはできません」
男は思わず訊き返した。
「……そういうものでしょうか」
毛虫が死んで、最も悲しんでいるのは彼女だと思っていたからだ。
しかし、彼女の答えは変わらなかった。
「ええ、そういうものです」
男はにわかに心細くなったように感じた。彼女があまり表情を見せないことや、難しい道理を口にすることは珍しくないが、その先を尋ねたら取り返しがつかなくなってしまうような気がしたのは初めてのことだった。
そこで、男は話を変えるように別のことを言う。
「それにしても、その毛虫はよほど葉の裏を好んでいるようですね」
ふと、彼女が手にしている枝の先で、先刻捕えた毛虫が一向に葉の裏から動こうとしないことに気づいてのことだった。
すると、彼女がその枝の向こうから男の顔を見た。
「――いなごまろ、よく思い出してください」
「と言いますと」
「葉の裏を好むのは、まことにこの毛虫だけですか」
「違うのですか」
「他の毛虫はどうでしたか」
そう言われると、これまでに捕らえた毛虫も葉の裏にいたことが多かったことを、男はそのことを思い出す。
「ええ、そうです」
彼女は男が何も言わずともうなずいた。
「其方らが捕えてくる毛虫をよく見ているうちに気づきました。どうやら毛虫は皆よく葉の裏で時を過ごすようです。いなごまろ、それはなぜだと思いますか」
「毛虫は葉を食べて生きていますから、それゆえではないのですか」
「ですが、食(は)むだけなら葉の表にいてもできます」
たしかにそうだ。
「それなのに、わざわざ裏にいるのはなぜなのでしょうか」
「……わかりません」
「そう言わず、もう少し考えてみてください。もし其方が毛虫だったらどうしますか。いなごまろの考えが聞きたいのです」
男は言われた通り毛虫になったつもりで考えてみた。
まず腹を空かせて葉を食みに行く。毛虫の歩みは遅いから、きっとたどり着くだけでも容易くはない。だが、葉の裏に回ろうとすれば、過って土の上に落ちてしまうかもしれない。そうなれば、また木を登るところからやり直しだ。考えるだけで気が滅入る。それゆえ、わざわざ葉の裏に向かう気は起きなかった。
気づいてしまったら、わざわざ葉の裏に向かう気は起きなかった。
しかし、これでは彼女の問いに答えられない。
その不明を見抜いてか、彼女はさらに言葉を足す。
「いいですか、誰もが行きたいところへ行けるわけではありません。今いるところが、必ずしもその者が望んだところとは限りませんのです」
男は必死に頭を働かせる。つまり、毛虫が葉の裏にいるのは、葉の表にいられない所以があるからということだろうか。そう考えた途端、空の碧さが目の端をかすめた。
「……鳥、ですか」
「よく気づきましたね」
彼女の低く澄んだ声がわずかに鈴の音の響きに似る。
「ええ、鳥から身を隠すためと考えれば筋が通ると思うのです」
男は彼女の言葉に畏まって頭を下げた。
そう、葉の表にいると空がよく見えるのだ。
ということは、空からも毛虫がよく見えるに違いない。
空には鳥がいる。鳥は毛虫を見つけると襲いかかってくる。毛虫が葉を食むように、鳥は毛虫を食むものだからである。
男は毛虫になったつもりで、それを避ける術はないかと考えてみた。だが、こうも歩みが遅くては如何ともし難い。男はそのまま自らの血肉が啄まれるところまで思い浮かべてしまいそうになり、慌ててやめた。愉快な気分ではないに決まっている。
そうならないためにも、毛虫は葉の表にいるわけにはいかない。
果たして、――葉の裏にいることが多くなる――。
「とは言うものの、この考えがまことに正しいのか否か今はまだわかりません。それを確かめるにはどうすればよいか、少し前から案じているところです。毛虫に問うて答えてくれるものでもありませんから。……蓋し、それゆえに面白いのですけれど」
彼女は虫について語る時、いつもより少しだけ能弁になる。男はそれを心地よく聞きながら、先刻まで感じていた悔しさや心細さが自らの内から消えていることに気づいた。彼女に褒められたその時から、男の顔には晴れ間が覗くような笑みが浮かんでいた。
男は悦に入り、頭を上げる。
そこで彼女と目が合ったのは、まったく慮外のことだった。枝先の毛虫に向けられているとばかり思っていた彼女の顔は、まっすぐに男に向けられていたのだ。
優しげな眼差しの目元も――。
そよと温かみが差す頬も――。
歯を垣間見せて綻ぶ唇も――。
そのすべてが男を見つめている。
そういえば、彼女はこれまでにも、毛虫に向ける微笑みと同じ表情を男童に向けることがあった。珍しい虫を見せ合っているときや、庭に現れた虫を皆で追いかけている時など、彼女は御簾を巻き上げて童どもを見ながら、時折その微笑みを浮かべていたのだ。
男は覿面に顔を赤くした。
「な、なぜでございましょう、な」
自らの裏返った声を聞きながら、男はまだ顔を逸らせずにいる。かくも至近で、正面から微笑みかけられたのは初めてのことだった。とりもなおさず見惚れていた。その照れ隠しが口を衝いたのだ。
彼女はなぜ童どもを見て微笑むのだろう。
男が口早にそう尋ねると、彼女は穏やかに答えた。
「其方らは本地をもって生きているからです」
「本地とは何のことですか」
「物事のありのままの姿のことです」
「……では、毛虫を好まれるのもそれゆえのことなのでしょうか」
その言葉は、男にとっても意外なほどすんなりと口を衝いて出た。
彼女も少し意外そうにしたが、すぐにまた微笑みをたたえて応じた。
「いなごまろは、ほんによく気づきますね」
その一瞬、男の胸を溢れんばかりに埋め尽くしたのは、幼さゆえに純粋な喜びの感情にほかならず、やはり、悚れはそこに一片ほども含まれていなかった。
「あ、あのっ」
障子の向こうから声が飛び込んできたのは、それから間もなくのことである。
「むっ虫籠を持ってまいりました」
言葉の端々から切に伝わる緊張を差し引いても、ひどく舌足らずな声だった。
先刻、障子の外に控えていた女房とは別人のようだ。男が障子に近づくと、向こうから虫籠が差し出される。大きさを別にすれば、この部屋に置かれているほかの虫籠と見栄えは変わらない。細い隙間から内が見えるよう竹で編まれた素朴な意匠である。
「いなごまろ」
低く澄んだ声が男を振り向かせる。
「背中は痛みますか」
「……いえ、もう何とも」
「薬があります。持って行きなさい」
彼女はしばしば男に薬を持たせてくれる。褒美ばかりが目当てではないという思いに偽りはないが、それでもありがたいことには変わりなかった。市には滅多に出回らないし、出回ったところで買える値でもない。母の病のための薬だ。
「小梅ですか」
「は、はい」
「案内を」
彼女は障子越しにそう言いつける。
部屋の外には、顔立ちにまだ幼さの残る年少の女房が控えていた。
勿論、年少というのはほ﹅か﹅の﹅女﹅房﹅よ﹅り﹅長じているに違いない。けれども、声と見目の印象には、男とそういくつも変わらないのではないかと思わせるようなところがあった。
小梅と呼ばれた年少の女房が歩き出し、男はその後に続く。
足取りはきわめて緩やかだった。或いは、緩やかというより覚束ない。小梅の足はまるで初めて訪ねる道を歩くかのように頼りなさげに思えた。
それでも、二つの足音は黙々と進む。と、次第に厨の音が近づいて聞こえるようになる。廊下と部屋の隔たりが減り、視界が広がっていく。男の足元で床が寒鴉のようにきいと軋む。――そこで男がふと立ち止まったせいだった。
美しい蝶が羽を開いていた。
いや、そう見えたのは一瞬のことで、目を澄ますとそれは衣だった。
息をのむほど艶やかで、滴るように濃い紅梅色の衣である。つい足が止まったのも無理はあるまい。広げて衣架に掛けられたそれが、羽を開いた蝶の姿を思わせたのだ。
男の目は縫い付けられたように、その蝶の幻を見つめている。
と同時に、もう一つの足音も止んだ。
「あの……怒っていますでしょうか」
小梅が男の方を振り返っていた。
だが、男はそれが自分に向けられた言葉だとすぐには気づかなかった。何しろ、女房たちは虫と変わらないくらい、それを連れてくる童どものことも疎んじている。現に、男はこれまで女房から話しかけられたことなど一度もなかった。
「ちっ違うのです。虫籠の支度を頼まれたと言うので急いでお持ちした次第で、お話しているところを妨げるつもりでは決して――」
小梅が舌足らずな声でそう続けるのを聞いて、男はやっと自分が話しかけられていることを知る。
「……いえ、とんでもございません」
男の答えもついたどたどしくなった。小梅から今にも泣き出しそうな気配が伝わってくることに半ば毒気を抜かれたのだ。勿論、訊かれているのは彼女に違いない。女房が下賤の童の機嫌を気にする謂れはないだろう。
「怒ってなどいないと思います」
「……そうだといいのですが……」
小梅は気遣わしげな様子でつぶやいた。自分から訊いておきながら、男の言葉をそのまま信じる気にはなれないらしい。
「これまでも幾度か同じようなことがありましたが、それで誰かがとがめられたと聞いたことはありません」
そこまで話してようやく、小梅は胸を撫で下ろした。
彼女を怒らせてはいまいか、よほど気がかりだったのだろう。わざわざ下賤の童に声をかけてきたのも、そのためと考えれば得心がいく。と思ったのだが、しかし小梅はいまだ足を止めたまま、何か言いたげな顔で男の方をちらちらと見ている。
「ところで、毛虫が亡せたと伺いました」
やがて、小梅は意を決したようにそう口にした。
なぜそんなことを知っているのだろう。男がそう思いながら話を聞くと、どうやら今朝あの部屋から虫籠を下げたのも小梅だったらしい。それで耳にしたのだという。
「じ、実を言いますと、その時にふと気になることがありましたゆえ、先刻も虫籠をお持ちする務めを別の者から代わっていただいた次第でございます。されど、此方からお尋ね……」
「……するのはとても畏れ多く……」
「何がそう気になるというのですか」
「それは、その――骸の行方でございます」
男は虚を突かれた。
骸というからには亡せた毛虫――けらおが見つけてきた先頃の毛虫のことだろう。
亡せていようが、虫は虫だ。興味を示す女房がいるとは考えてもみない。男は信じられないものを見る目で尋ねた。
「もしや虫がお好きなのですか」
「ま、まさか」
強い否定を示すように舌足らずな声が震える。
「……そうではなく。あれらをいとおしく思うお気持ちは解せません……」
その話しぶりは姫君への嫌悪を感じない。近寄り難く思っている様子ではあるが、それは厭うているがゆえではないように見受けられた。先刻、畏れ多いと口にしたのも、或いは素意であるのかもしれない。とまれ、姫君を奇異の目で見ることしかしないほかの女房とは何かが違う気がする。
男はもう少し話を聞いてみたくなった。
「――して、骸の行方と言いますのは」
「ええ、今朝下げた虫籠の中には見当たらなかったのでございます。いえ、もし見当たれば叫んでしまいましたでしょうから、かたじけなく思うべきことではあるのですが……」
しばらく考え込んでから、男は小梅の言いたいことを理解した。
骸の行方――つまり、けらおが見つけてきた先頃の毛虫は、骸となった今、どこにあるのだろうか。小梅はそれを訝しんでいるのだ。
あの部屋で毛虫が動かなくなり、姫君はそれをどうしたのか。
例えば、何者かに骸を受け渡し、宜しく取り遣るよう頼んだのかもしれない。その何者が女房であると考えることは容易い。なぜなら、女房たちは日頃から姫君の側に仕えているため、受け渡す機会がいくらでもあるからだ。一方、女房以外の何者に受け渡すためには、その者が姫君の元を訪ねてくる必要がある。
「誰ぞ訪ねてきた者は」
ゆえに、男はそう尋ねた。しかし、小梅によれば、昨日から今日にかけて、姫君を訪ねてきた者は男のほかにはいないという。勿論、男は姫君から何も受け取っていない。
では、やはり女房に頼んだのだろうか。いや、それも違う。小梅でさえ毛虫の骸を前にすれば叫び出すと認めているほどだ。女房たちに頼めば、無用な騒ぎとなることは避けられないだろう。姫君はそれを望むまい。さらに言えば、そのような騒ぎがあったなら小梅の耳に入ったはずである。
畢竟、骸は余人に託されたのではない。
姫君が自ら取り遣ったのだ。
とはいえ、人の骸のように京外まで運んで打ち捨てるたわけではあるまい。彼女がこの邸の外へ出ることは固く禁じられている。どころか、簀子へ下りただけでさえ、松来のような者に止めに入る者がいるほどだ。骸を庭に持ち出すことができたとも思えない。
では、邸の屋内はどうだろうか。骸を衣の内に隠し、部屋から持ち出して人知れず邸の……
どこかに置くことはできるだろう。だが、いずれ見つかる。置いた後で女房たちの目に触れれば、結局は悶着が生じることは自明である。姫君はやはりそれを望むまいし、騒ぎがあれば小梅が知らないはずはあるまい。
昨日からずっと衣の内に隠し続けていると考えるのも無理がある。貴族の婦女が衣を召し替える際には、必ず女房が手を貸すということは庶民である男でも知っていた。骸を隠し持っていたら、そこで見つかってしまうだろう。
そう考えていくと、骸のあるべき場所は一つしかないように思われた。
「であれば、いまだあの部屋の中にあるのではないでしょうか」
男は小梅にそう伝えた。
――部屋の外へ持ち出せば、やがて女房たちの目に触れることは避け難い。ゆえに叶わないというのであれば、骸はまだ部屋の中にあると考えるのが道理だ。虫籠を置いているあの部屋には、女房たちも立ち入らないのだから騒ぎになる心配もしなくていい。
先刻、男があの部屋で首を巡らせた時は目につかなかったが、毛虫ほどの大きさであれば見落としたとしても無理はないだろう。
しかし、小梅はやはり腑に落ちない様子だった。
「……まことにそうなのでしょうか……」
どうやら求める答えではなかったらしい。だが、小梅が如何なる違和を感じているのか、男には知る由もなかった。或いは、本人でさえ量りかねているのかもしれない。
やがて、小梅は自らに言い聞かせるように言った。
「――いえ、そうですね、きっとそうなのでしょう。そのように考えれば、所以は明白でございますし」
「所以ですか」
「ええ、おそらく言い出しづらかったのではないかと。触穢ではないにせよ、凶兆と見られることを案じたのかもしれません」
そう聞いた途端、男はわけもなく不吉なものを感じた。
「それは、どういうことでしょうか」
「と言われましても……そのままのことでございます。定めによれば、その骸を穢れとすべきは人のほかに馬、牛、羊、犬、豕、鶏のみ。いずれも大きな畜類でございます。虫については何も書かれておりません。蝉が落ちるたびに夏の参内を控えるわけにもいかないでしょうから」
そういうものか、と男は思う。
触穢――すなわち、穢れに触れること。
何を穢れとすべきかということは、詳らかに定められている。
例えば、死や出産はその筆頭だ。したがって、骸がある場所に身を置いた者は死の穢れに触れたことになる。
下賤の者はさほど気にしないが、貴人ほどそれを忌み嫌う。
なぜなら、穢れに触れた者は、それが落ちたと認められるまでの間、神事や祭事に携わることを禁じられるからだ。
あまつさえ、穢れはうつる。たとえ骸のある場所へ行かずとも、穢れに触れた者と同じ場所に身を置いただけで、その者もまた穢れに触れたと見なされることがあるのだ。ゆえ
に、貴人は穢れに触れると、それを広めないよう謹慎をしなければならなかった。
もっとも、男はその委細を承知しているわけではない。例えば、犬や鶏と虫の間に違いが定められていることなど初めて聞いた。しかし、貴人の多くは不浄なるものを穢れとして避け、触れれば余人と会うことができなくなることは理解していた。
「――なれば、触穢ではないのに凶兆というのは」
「ええ、さりとて、決して縁起のいい話とは言えないこともたしかですから。勿論、尋常ならば騒ぐほどのことではございませんが、近頃は何かと気を回す者も多いのです」
時機が悪いということか。しかし、その言い条では、まるで今が尋常の時ではないと認めているようにも聞こえる。
「何かあったのですか」
「いえ、これからあるのです」
小梅は小さく驚いた様子を見せた。
「もしや――聞かされていないのですか」
男は何も言えなかったが、それが答えだった。
すると、やや沈んだ様子だった小梅の声遣がふわりと華やぎ、またとない話が姫君に来ているのだと男に教える。
その時、男は不意にまた蝶の幻を見た。
息をのむほど艶やかで、滴るように濃い紅梅色。
厨の音が、やおら遠くなったかのように耳に届かなくなる。
だが、その奇妙な静けさの中で、舌足らずな声が語るその言葉だけは、なぜかはっきりと聞き取ることができた。
「――と言いますのも、さる公達と縁談が進んでいるのでございます」
「終わったようですね」
男はその声にはっとした。
男は大儀そうに首を振り、傍らの牛を見る。その後頸から伸びる轅の先に、竹の網代を張った箱を具えている。声の主はその中にいる。――前簾が下りているため姿は見えない。牛車である。
男は安堵の息をついた。その油断がいけなかったのだろう。口を開いた分、息を吸えば煤の匂いが鼻先を通り抜けていく。だが、先刻と比べればはるかに薄れた。煙も儚く消えかかっている。月が少し傾いたようだ。
「何を考えていましたか」
「昔のことを」
「そう」
「……奥方様には」
男は簾に向かってそう呼びかける。
簾越しに、柔らかくおっとりとした声が伝わる。
「では、同じですね」
「当時から、まことによくしていただきました」
「礼なら幾度も聞きましたよ。ですが――懐かしいですね。当時の其方は、今では思いも及ばぬほど、実に後先を考えぬ童子でした」
「は。かたじけないことです」
男は恭しく応じた。
「奥方様の御様子も当時から甚だお変わりになりました」
「そうですね、悲しいことに皺が増えました」
「見目のことは存じませんが……」
簾の向こうで声が弾む。
「戯れですよ」
男はその簾の先の有様をうまく思い浮かべることができない。何しろ、最後にその姿を目にしたのは童の時分である。どうしても、その頃の年若い姿が浮かんでしまうのだ。
あの稚い日々からもう気の遠くなるような歳月が過ぎた。
その間、動乱は絶えず、地震や辻風が相次ぎ、飢饉にもたびたび襲われた。今日まで生きていられただけで希有なことだと男は思う。木守――庭の世話や番を担う――を生業とするようになってからも、その世情のために幾つかの家を転々とした。貴族の邸でも、以前のように多くの者を雇い続けることが次第に難しくなっていったのだ。
そして、転々とした先で、男はとある邸に拾われた。
異な縁である。ある時、男はその家の奥方から呼び出しを受けた。何事かと思っていると、奥方は御簾越しに自らの古い名を告げて男を驚かせた。奥方は以前、三条の邸にて女房として出仕していたことがあったのである。
当時の女房名を、小梅といった。
奥方は名乗り終えると、次に男の母のことを尋ねた。亡せたと伝えると、男は懇ろに悼む言葉をかけられた。以来、男は今日までその邸で務めている。
広い邸だ。
しかし、男が幼少の時分に通った三条の邸には劣る。同じ貴族でも、大納言に任じられるほどの家柄ではないのだ。当然、厳しい世情と無縁ではいられず、男の務めは次第に庭のことだけではなくなっていった。車副――牛車の供を担う――も男がいつしか兼ねるようになった務めの一つである。
今宵、かくして男は奥方の命を受けて牛車をここまで進ませてきた。
「されど、言い訳くらいさせてくださいね」
牛車の箱――簾の向こうから奥方の声が夜を揺らす。
「其方と初めて話したのは、あの邸へ上がるようになってからまだいくらも経たぬ時分のことでした。慣れぬ邸で身が縮んでいたのです。さぞや頼りなさげに見えたことでしょうが、それもこれも女房として日が浅かったがゆえだとわかってください」
「は。当時からそのような次第ではないかと思っておりました」
「あら、そうですか、やはり頼りなかったですか」
「――いえ、決してそのようなわけでは」
男が声に焦りを滲ませると、
「戯れですよ」
奥方はそう言って笑った。かような時でさえ、今や柔らかくおっとりとしたその声遣が乱れることはない。男はそのことに過ぎ去った歳月の長大さを思う。
「……それに、何かと噂の絶えぬ方でしたから」
奥方様はどこか慈しむように言った。
「とても風変りな方だと」
男は無言でそれを聞きながら、胸が小さく騒ぐのを感じる。
つまるところ、巷にも彼女を奇異の目で見る者が大勢いたということだろう。考えてみれば解せない道理ではない。邸の中でさえ憚りなく陰言を囁く者たちが、外で同じことを吹聴せぬ謂れがどこにあろうか。
「……初めのうちはその噂を真に受けて、大仰に言えば取って食べられるのではないかと震えたものでした。されど、次第にその考えは変わりました。必ずしも世間で言われているような方ではないのではないかと感じるようになったのです。いえ、噂が間違っていたわけではありません。予め聞いていた話は概ねまことのことばかりでした。むしろ、虫を好むことに関しては噂を超えていたとさえ思います」
奥方がゆっくりと、しかし淀みなく話すので、男は口を挟まなかった。
「ですが、実に話してみると、噂の中で痴れがましく語られるような、ただ風変りなだけの方にはとても見えませんでした。たしかに、世の常と異なる行いは多々ありましたけれど、それらは必ず深い思慮があってのことであったのではないかという気がするのです。噂とはむしろ逆様――うまく言えませんね、されど、ほかの者にはない聡明さを内に秘めていたように思われてなりません」
奥方の声はそこでわずかに含羞んだ。
「少し話し過ぎましたね」
「いえ、嬉しく聞いておりました」
男は殊にその一言に感じ入った。男にとって、それは姫君を言い表すのにこの上なくふさわしい響きだったのだ。
かつて小梅と呼ばれていた年少の女房と初めて会った日のことを思い出す。あの日、小梅に対し、ほかの女房とは何かが違うと感じたのはやはり間違いではなかったらしい。男はその思いをいっそう強くした。
ならば、その目に姫君の微笑みはどう見えただろうか。男はそのことが気にかかり、まずその微笑みを見たことがあるかと問うてみる。
すると簾の向こうから、
「ええ、憶えていますとも」
と、いろよい返事があった。
「あまり表情を変えることは多くありませんでしたが、稀に微笑みを浮かべることがございましたね。もっとも、お気に召した虫を見つめる時や、外から呼んだ童子たちを眺める時ばかりで、邸の者に向けてくださることはございませんでしたが」
「では、それを見て、背筋が冷えたことはございますか」
正しく言えば、男がその微笑みを目の前にしてぞっとしたことは一度もない。そう感じ
るようになったのは、彼女と会うことが絶え、その微笑みに記憶の中だけで触れるようになってからだ。それゆえ、男はさらに続けてこう尋ねた。
「或いは、後に思い出して、背筋が冷えたことはございますか」
だが、男はすぐにそれを悔いた。
簾の向こうから物音が消えたからだ。
あれほど絶えなく吹いていた風も折悪しく凪ぎ、男は夜陰の只中にひとりで取り残されたような心許なさを覚える。
「ああ、何を言うかと思えば」
ようやく簾越しに聞こえてきたのは、奥方のどこか愉快そうな声だった。
「其方も戯れを口にすることがあるのですね」
「……ご無礼をお許しください」
「よいのです」
「奥方様――」
男が異変に気付いたのはちょうどその時である。
「何者か近づいてまいります」
男は声を落とした。夜半の京外である。すわ野盗か物怪かと男はにわかに身構える。されど、月明かりを借りてじっと目を澄ますと、どうもそうした様子ではない。
男の戸惑いをよそに、奥方はこともなげに言った。
「小さな布袋を持つ僧形の者ではありませんか」
「どうしてわかるのです」
「その布袋を受け取ってください。二つあるはずですから一つは此方へ」
果たして、僧は男の手元に二つの布袋を残して去っていった。掌に容易く収まる大きさである。男は言われた通り、一つを簾の脇へ置く。
「……これはいったい……」
中身は細々とした白い小石のように見えた。だが、石というには聊か脆く、白というにはやや濁っている。鼻を寄せると煤の匂いがした。
「これは骨です」
柔らかくおっとりとしたその声はやはり乱れることなく言う。
途端、かように変わり果てた姿でも感慨は湧いた。
今宵は彼女の葬送だと聞き及んでいる。
その日は雨だったことをよく憶えている。
雲は鈍色に垂れ籠め、地や木々を打つ音が耳を聾するような雨の脚だった。邸へ忍び込むには恰好の空である。
いや、これまでとて門から堂々と出入りしていたわけではない。だが、それで邸の者に追い返されることは一度としてなかった。姫君が下賤の童を遣っていることは、邸の誰もが知るところだったからである。ところが、近頃は違う。
ところが、近頃は違う。
野犬のように追い立てられ、取り囲まれて邸を去るよう迫られる。食い下がると牛飼に棒で打たれる。鞭や刃物を持ち出されることこそないが、手心はまったく感じない。今までのように訪ねても彼女に目通りは叶わないのだ。ゆえに、雨音と暗雲に紛れて忍び込む必要があった。
幸いにして、誰にも見つかることなく男は邸の床下に身を隠した。
しかし、息をつく間もなく、
「何がご不満なのかしら」
「また始まったそうですよ」
頭のすぐ上を足音と話し声が過ぎていく。男は思わず肩を震わせた。留まっていたら見つかるような気がして、逃げ出すように這って進む。
雨が遠のくにしたがい、引切りない足音が降りしきる。
邸の中はよほど忙しいようだった。とても床下に気を配るゆとりのある者がいるとは思われない。と、男がようやくそのことに気づき、肩の力を抜きかけたその時である。
頭上から癇癪めいた甲高い声がした。
「どうかお聞き分けください」
「かような良縁、ふいにすれば御身は京中の笑い種です」
何を今さら、と低く澄んだ声がそれに答える。だが、甲高い声は臆さぬと決めているかのように言葉を続けた。
「そうお認めになるのでしたら、なぜ態度を改めてこられなかったのです。大納言様も深く嘆いておられたことですのに」
「如何に繕うたところで、本地が変わるわけではありません」
「さりとて、世の覚えが悪くなるのでございます」
「ありのままの姿ではなく、うわべばかりを気にして何のためになりましょう。嘆かわしいのは父上の方ではありませんか」
「口をお慎みください」
「では、ひとりにしてください。さすれば口も開きますまい」
しばし声が途絶える。
「……訪ねてくる者はございませんよ」
「父上が邸の警固を命じたことは知っています」
「この松来の頼みを容れていただいたのでございます。されど、ご安心ください。けがはさせぬよう言い含めておりますゆえ」
「お優しいこと。して、其方はいつから顔を厚くしてかような巧言を弄ぶようになったのですか。血が流れれば困るのは其方でしょう」
雨の音が大きくなった。
いや、ほかの物音が消え失せたのだ。
触れれば指が切れそうな、ひどく張り詰めた深い沈黙。衣擦れの音さえもしない。ただならぬ気配が床下まで漏れ伝わり、男は指先一つ動かすことができない。
「もう一度言います」
その声はまるで沈黙の一部であるかように静かだった。
「しばしひとりで置いてください。誰も近づけぬよう。よいですね」
「かしこまりました」
甲高い声がにわかにくぐもる。
頭を下げ、顔を伏せたのだろう。
「……どうか、この松来をお恨みください。すべては御身のためを思ってのこと。いつの日かわかってくださると信じております」
返事はなかった。それは遠ざかる足音に向けられた言葉だった。足音が消えても、そこに残された者が顔を上げる気配はない。身じろぎをする気配すらない。果たして、いつまでそこで頭を下げていたのか――男が知ることはなかった。
その前に、男はつと我に返り、遠ざかっていくその足音を追って、再び床下を進み始めていたからだ。
今しかないと思った。彼女はひとりになりたいと言っていたが、今日を逃せばもうここまでたどり着くこともできまい。男は心の限り手足を力ませて這った。それでも一向に追いつけず、やがて足音が耳に届かなくなると、男は考えを変えて床下の外へ向かう。彼女がひとりになるとしたら、虫籠を置いているあの部屋しかないだろう。
いずれにせよ、いつまでも隠れているわけにはいかないのだ。
男は床下から這い出て、その部屋を目指す意を決した。
雨はまだ降り続いている。黒雲も依然として厚い。だが、ここから先は、男の姿をくらませてくれるものは何もない。
息を整え、自らを鼓し、男はそっと邸の廊下に足を下ろす。
――と、床がきいと軋んだ。
「誰ですか」
素早く響いたその声に慌てて足を退くと、もう一度軋んだ。頭が真っ白になる。とっさのことでどこから声がしたか判然とせず、首が取れそうな勢いで前後を見渡すが、廊下に人影は見当たらない。まだ姿を見られたわけではなさそうだ。
しかし、太い柱の奥から何者か近づいてくる気配がする。
今にもその廊下の先から現れるだろう。とにかく逃げなければと体が勝手に動き、足がもつれた。膝をつく。それでも何とか蔀戸の裏に回り込む。すると、目映い色彩が男を迎えた。蒔絵の麗しい山吹色に、幾重にも燦らかな螺鈿の錫色。どうやらここには調度が集めて置かれているらしい。それらは調度にあしらわれた色彩だった。
足音が迫る。
耳の奥で甲高い声がこだまする。あの尋常ならざる峻厳な気配。見つかったら生きては帰れまい。そんな気がした。歯の根が合わず鳴りそうになり、男の右手が顔ごとそれを押さえつける。だが、その指の隙間からも男の目は何かを求めるようにさまよっている。
果たして、背後で床が軋んだ時には、男は閉ざされた暗闇で膝を抱えていた。
足音は蔀戸を越えると、そこで行き止まったように揺らいで消える。そのまま引き返していくことを男は念じた。男の姿は、今、誰にも見えていない。ゆえに、それは決して無体な願いではなかった。だが、やがて何かをまさぐるような物音が聞こえ始める。
何者かがあたりの調度を探っていることはすぐに知れた。
水を張るための角盥が持ち上げられる音がする。
明かりを取るための燈台が動かされる音がする。
物を収めておくための櫃に手をかける音がする。
櫃の蓋が開かれたのだ。
固く閉ざした目蓋の外で、暗闇が払われるのがわかる。自分はここで死ぬのだ、と思うと全身が激しく脈を打った。男には為す術がなかった。もう逃げ場は残されていない。
その中に隠れ潜んでいた男の姿が露わになる。
何者かがそれを見下ろして言う。
「わ、わ、どうしてここにいるんですかっ」
ひどく舌足らずな声だった。
この年少の女房にさえ看過されれば――男はとっさにそう希った。だが、それはとても真面な考えとは言えなかった。小梅にそんなことをする謂れがないのだ。誰にも褒められないどころか、ほかの者に知られればどんな責めを問われるか知れたものではない。
それでも男は助けを請うた。ほかにすべきことがなかったと言えばそれまでだが、相手が小梅でなければそうはしなかっただろう。男は以前、小梅に対してほかの女房とは違う何かを感じていた。そのことがこの行いと無縁だったとは思えない。
「どうか自分をあの部屋へ向かわせてほしい」
「もう一度だけでも姫君にお会いしたいのだ」
男は口早にそうまくし立てた。小梅の目に迷いがよぎる。沈黙は、実際には一瞬のことだったのだが、男にはそれが永久にも感じられた。
ほどなく小梅は答えた。
「……なれば、今はなりません」
「すぐに向かえば、道すがら邸の者が多くおります。人が引くまで、少しばかりの間、ここでお待ちください」
その声は、目の前にいる男の耳にさえおぼろげなほどか細かった。
それは余人に聞かれないためであるだけでなく、小梅が少なからず感じている後ろめたさのためでもあったに違いない。
かたじけないことです、と男が礼を述べると、小梅は目を逸らすように櫃の前から離れていき、部屋の隅の燈台のすぐ横で腰を下ろした。
男も櫃を出て足を休める。強張っていた体が解けていくのがわかった。押し寄せる雨の音にもかかわらず、部屋の中は耳が鳴るほど静まって感じられた。
そうしてどれほどの時が過ぎた頃のことだっただろうか。
「先日、西国の話をしました」
舌足らずな声がゆくりなく言った。それは自らに語るような訥々とした響きで、男の返事を待つことなくさらに続いた。何でも、小梅の兄はかつて西方の国に任じられていたことがあるという。
とがあるという。それを知った姫君が、その国のことを幾つか尋ねたそうだ。果たして、小梅はすぐに兄と文を交わし、尋ねられたことに答えた。
どうやら、姫君は書でその国について読んだことがあり、書かれていたことが本当か確かめたかったらしい。当時、姫君の父は按察使――地方行政の監督を担う――を兼ねていたから、邸に遠国のことを記した書が揃っていたのは偶然ではない。
「尋ねられたのは、西方における荼毘の為来でございました」
小梅はそこで言葉を切ると、ようやく男の方を見た。
「それで思ったのでございます――骸は荼毘に付されたのではないかと」
男はそこで理解する。以前、たしかに小梅と骸の行方について話した。けらおが見つけてきた大きな毛虫の骸についてだ。
姫君はその骸をどこへ取り遣ったのか。虫籠を置いているあの部屋の外へ持ち出すことはおそらく難しかっただろう。ならば、まだ部屋の中にあるのではないか――小梅がその考えに得心がいかない様子だったことも、男はよく憶えていた。
「……火に焼べられたということですか」
「ええ、弔いのために」
男の頭にはない考えだった。
何しろ、庶民にとって、葬送とは故人の骸を京外の葬送地――鳥辺野や化野まで運んで打ち捨てることに等しい。
だが、たしかに聞いたことはある。一部の貴族の間では、葬送として骸を火に焼べることがあるらしい。薪の一把も重宝する庶民からすればとても正気の沙汰ではないが、その弔い方を指して荼毘に付すというそうだ。
「ですが、火はどうしたのですか」
姫君は自ら火を扱うような身分ではないはずである。
「ええ、たしかに火を扱うのは専ら邸の者たちの務めでございます。例えば、煮炊きの火に焼べようと厨に立ち入れば、かえって目立つことでしょう。ですから、そうではございません。或いは、香を焚くには火を用いますが、それもされない方です。かといって、今は寒さのために火桶を出す時候でもありません」
「では、やはり――」
「これがあります」
小梅はそう言って、自らの側の燈台を示した。台座から縦に竿が伸び、その頂点に皿を具えた調度である。その皿に油を張り、火を灯すことであたりを照らすものだ。
「この邸では、夜になると寝所や廊下にこれを立てて明かりを取っております。衣の内に隠し持った骸を、人知れずこの燈台の火に焼べたと考えれば、後には灰が残るばかりでそれが毛虫だったことに気づける者は誰もおりません」
「残った灰はどうなるのですか」
「油皿の中で焼べたのですから、油皿の中に残ったと思われます。されど、明くる朝には邸の者が浄めてしまったはずですから、今はもうどこにも残っておりません」
「浄める者は怪しく思わなかったのでしょうか」
というのも、薪や炭と異なり、油は燃えた後に灰が残らない。ゆえに、油に火を灯した後の皿に灰が残されていれば、常ならざることとして認められたはずだ。
その問いに、小梅はこう答えた。
「一度のことですから、見落としたとしてもおかしくはありません」
或いは、と舌足らずな声が続く。
「一度のことですから、気にかけなかったとも考えられます」
そうかもしれない。小梅の言うことはもっともだ。おや、と思うことが一度や二度あったくらいでは、立ち止まらない者も珍しくはないだろう。
しかし、男は首を横に振った。実のところ、骸の行方については、男もあれからずっと思案を続けていた。小梅の腑に落ちないような様子が気にかかったからだ。そのせいで小梅が今言ったことはあり得ないとわかるのだから、不思議な巡り合わせである。
「ど、どういうことですかっ」
小梅の声が裏返った。小声でありながら、よほど思いがけなかったのか、腰が浮きかけている。男はかえって落ち着いて切り出すことができた。
「一つは数のためです。褒美を与えてくださることで、この邸には常に多くの虫が集められていました。もう一つは月日のためです。集めた虫を虫籠に入れてあの部屋に置くようになってから、もう何年も経つと聞いております」
「ええ、存じていますが、それがどうしたというのですか」
「虫はやがて亡せます。人や畜類よりはるかに儚い命です。なれば、あ﹅の﹅部﹅屋﹅で﹅骸﹅が﹅出﹅る﹅の﹅は﹅先﹅日﹅が﹅初﹅め﹅て﹅の﹅こ﹅と﹅だ﹅っ﹅た﹅の﹅で﹅し﹅ょ﹅う﹅か﹅。いえ、そうは思えません。数多くを、何年も置いていれば、骸になり果てる虫はこれまでも相応にいたはずです」
あ、と舌足らずな声が零れ落ちる。
「すると、考えるべき骸の行方は一つではありません。もし、この何年かの間、あの部屋で虫が命を終えるたび、その骸を燈台の火に焼べていたとすれば、油皿にあるべきでない灰が残されていることが幾度もあったはずです。一度や二度ならば見過ごす者でも、かようなことが繰り返しあれば怪しく思うのではありませんか」
思われないとすれば、それは姫君が燈台の火で骸を荼毘に付していることが邸の者の間で知れ渡っている場合だ。しかし、小梅の様子からしてこれはない。
怪しく思う者がいたならば、けらおの毛虫が死んだ先日においても何かしらの騒ぎが生じたはずである。この場合も、小梅が何も知らないはずはないのだ。
畢竟、姫君が骸を火に焼いているとは考えられないのだ。
「……いえ、ですが、それはおかしいです」
小梅は口にしてから慌てたように言い足した。
「あ、違いますっ。今の話が間違っていると言いたいわけではありません。むしろ、その通りだと得心しました。ですが、得心したからこそ、おかしいと思うのです。それでは骸の行方がなくなってしまいます。今の話を踏まえると、骸のあるべき場所はあの部屋の中だという以前の考えも過っていたことになるのではありませんか」
男は徐にうなずく。小梅の言う通りだった。骸が一つではないと気づいた以上、それらがあの部屋の中にあると考えることはできない。
「……たしかに、今となってはそれもあり得ません。虫の骸なれば、一つ一つは小さいといえども、積み重ねれば大きな嵩となります。何年もかけて、幾多のそれをあの部屋に蓄え続ければ、今頃は朽ち果てた骸の山が築かれているはずです。ですが、あ﹅の﹅部﹅屋﹅で﹅は﹅そ﹅れ﹅が﹅な﹅く﹅……」
れを隠し切ることができません」
ほかの部屋ならばあり得たかもしれない。だが、あの部屋ではどうしても能わないのだ。なぜなら、あの部屋には一切の調度が置かれていないからです」
男は傍らのそれを見やった。
先刻、男が身を隠した櫃である。童とはいえ、人ひとりを隠しておける調度だ。これさえあれば、骸の山を隠すことは難しくないだろう。
だが、実際には、あの部屋に置かれているのは虫籠ばかりである。あまつさえ、それらは細い隙間から内が見えるよう竹で編まれているのだ。何かを隠すのにこれほど向かない意匠もあるまい。
ゆえに、見落とすはずがない。男はあの日、自らが部屋の中でぐるりと首を巡らせたことを憶えていた。道に迷ったかのように隅々まで目を走らせた。隠すべき場所のないあの部屋の中に、骸の山が築かれていたら、あの時に見落とすはずがないのだ。
「されど、それでは……」
舌足らずな声はその先を言葉にしなかった。だが、何を言いたかったかは手に取るようにわかる。それでは骸の行方がどこにもないことになってしまうのだ。そうにわかる。亡せた虫を部屋の外へ持ち出すことが難しいのは、今も昔も同じだろう。だが、骸は部屋の中にもないと知れた。まるで霞のごとく消えてしまったかのようである。ひどく怪異なことが起きているとしか思えない。
小梅にはきっとそれが解せないのだ。
そして、それは男も同じだった。果たして骸はどこへ行ったのかと問われても答えることはできないし、小梅もそれを察して口を噤んだのだろう。そのことが急に情けなく思えてきて、かたじけないことです、と男は再び口にした。
「……礼ならすでに聞きました」
「ですが、匿っていただけなければ、この邸から生きて出られたかどうか」
男は大仰に言ったつもりではなかったが、小梅は小さく首を左右に動かした。
「まさか、そのようなことはあり得ません。触穢は禁物でございますから」
――ああ、と男の口から呆けた声が出る。
松来の声に気圧されるあまり、そんなことも忘れていた。と同時に、幾つかのことが思い当たった。以前、男が木から落ちた時、なぜ女房たちがあれほど取り乱したのか。近頃、童を追い返すのに鞭や刃物を使わず、なぜいつも棒で打つばかりなのか。
「もしや、傷から流れ出た血も穢れとされるのですか」
小梅は案の定うなずいた。
「ええ、定めにはございませんが、そう見なされた例があると聞いたことがあります」
「……ということは、定めによらずとも穢れとされることがあるのですか」
「そうですね、事の次第によっては。それがどうかしたのですか」
小梅が怪訝そうに尋ねる。男の表情に驚きが表れていたためだろう。しかし、男はすぐにそれを押し殺して、何でもございませんと左右に首を揺らした。
「そろそろです」
舌足らずな声が小さくそう告げたのは、そのすぐ後のことだった。
くすぶるような雷鳴が先刻よりも近づいていた。風も出てきたようだった。雨音の濃淡がそれを告げている。ついに時が満ちたのだ。
小梅の背中はすでに蔀戸の向こうへ消えた。ほどなくして男も部屋を出る。小梅の言葉通り、人の気配は邸の他方へ集まっているようだ。それでも気を緩めることなく、姫君の元へ急ぎながら、男の頭の中では考えが二転していた。
骸はどこへ行ったのだろうか。
やはり、あの部屋の中にあるのではないか。
一度は否定したその考えを、男は再び認めようとしていた。
定めによらずとも、穢れとされることがあると聞いたからである。すると、虫の骸にも同じことが言えるのではないだろうか。例えば、一匹では穢れでなくとも、犬や鶏の身の丈に迫るほど数多の骸を集めれば――
そこまですれば、一廉に不浄なるものとして、穢れと見なされるのではあるまいか。
言い換えれば、男は姫君がそのために骸を隠してきたと考えているのだ。彼女はいつか自らが触穢を望む時が訪れることを知っていて何年も備えていたのではないか、と。
いや、そうに決まっている。
男の中でそれはほとんど確信に近かった。
しかし、そのためには細工が要る。調度のない部屋で骸の山を隠し切るための細工。施せるとしたらやはり虫籠しかないだろう。例えば、ずらりと並ぶそれらに紛れて、内が見えないよう隙間を詰めて編まれた虫籠が置かれているとか。或いは、ほかの虫籠と同じに見えるよう絵を描いた紙を内から張っているとか。いや、いずれも違う。そんな細工では目を凝らせばすぐに気づかれてしまう。
何かもっとほかの手立てがあるのだ。そうに決まっている。童の頭では思いも及ばないような、彼女だけが知る呪いのごとき手立てがきっと――
思案はそこで途切れた。
寒空を弾く弦音のように澄んだ低い声が男を迎えたからだ。
「おや、いなごまろ」
「よく来ましたね」
男は言葉を失って立ち尽くす。彼女に会えたら話したいことが山ほどあった。何から話そうか予め考えてさえいたが、そのいずれも男の口を衝いて出ることはなかった。
虫籠がない。
部屋の有様が、あまりにも変わり果てていた。以前は所狭しと置かれていた虫籠が、今はどこにも見当たらなかった。何もなく、ただ広々とした部屋の中に、着座した彼女がひとりで静かに佇んでいる。男の足は確信ともども頽れた。
「……何があったのですか」
男がようやくそれだけ言うと、彼女は小さく腕を揺すった。側へ招いているようだ。男は膝を躙るように前へ出る。すると、この薄暗さの中でもわかるほど、彼女の衣が見事に染め抜かれていることに気づいた。いつもの薄染ではない。
「邸の中がどこも忙しかったでしょう。ここへ来るのも容易くはなかったはずです。それがなぜなのか其方はもう知っているのですね」
男はうなずく。彼女は何か重い荷を下ろしたように息を吐いた。
「そう、それならばわかるでしょう。女人が虫を好むものではないと言い、ここにあった虫籠はすべて松来がどこかへ遣ったようです。悍ましい、気味が悪いと口をきわめて、誰よりも虫を厭うていたあの松来がここまでするのだから驚きました」
「止めさせなかったのですか」
彼女は静かに首を横に振った。
薄闇に隠されて表情は見えない。
「残っているのはこれだけです」
彼女の手元には枝が握られていた。その枝先には蛹が見える。だが、命あるものの気配がまるで感じられない。一目でもう生きていないとわかった。
「先日、其方が捕えてくれた毛虫です。ほかは松来がすべて放ってしまいましたが、これだけは残すことができました」
「……もう生きてはいないのですね」
「ええ。ですが、そう嘆くことではありませんよ」
以前も聞いた言葉だった。そして、以前と同じく男は思う。その先を尋ねれば、きっと取り返しがつかない。だが、男の口は躊躇いなく動いた。
「なぜですか」
ばらばらと急き立てるように雨が鳴る。
「蝶は毛虫です」
そう答える彼女の声は水面に広がる波紋を思わせた。
「毛虫が姿を変え、蝶となるのです。たとえ見目が変わっても、本地が変わることはありません。しかるに、世の多くは蝶の美しさのみを愛で、毛虫は気味が悪いと言って遠ざけるばかりです。実に烏滸がましいことだと思いませんか。見目よりも本地を尋ねることが肝心だと、なぜわからないでしょう」
ごく短い一瞬の間。
「……されど、この毛虫は蛹のまま亡せました。まるで蝶になることを嫌ったかのように。たしかに、蝶の姿は多くの人から愛されるかもしれません。ですが、見目ばかりを愛されることにどれほどの喜びがあるというのでしょう。本地に目を向けぬ者のために阿るなど耐え難いことです。そう思えば、蝶になることなく命を落としたとて、それを嘆くべきだと決めることはできません」
彼女は迷いなく言った。
「すべての毛虫が蝶になることを望んでいるとは、限らないではありませんか」
男は知らず、愁思に暮れる姿を思い起こした。
だが、そうではなかった。
束の間、痛いほどの閃きがあたりの闇を退け、そこに彼女の姿を截然と浮かび上がらせる。稲光が走ったのだ。
彼女はうっとりと微笑んでいた。
透き通るように凛々しい、黒﹅々﹅と﹅し﹅た﹅眉﹅に﹅縁﹅取﹅ら﹅れ﹅た﹅目元はわずかに弛緩し、優しげな眼
差しを灯している。常に何かを憂うように表情の少ない頬の上には、そよと春風が撫でたような温かみのある鮮やかな血の色が差している。平素は毅然と引き結ばれて隙を見せぬ仄かな桜色の唇がうっすらと綻び、その合間に無垢な白い歯が瞬いている。
その微笑みが、まっすぐに男に注がれていた。
「いなごまろ、もう少し此方へ」
男は言われるがまま足を進める。
「虫籠だけではありません。どうも少し前から、松来が衣をすべて濃染に変えさせたようです。さばかりか、まめに香まで焚きしめてあるのですから抜かりのないことです。この様子では、化粧を施されるのもほどなくのことでしょう」
稲光から数瞬を置いて、雷鳴が唸るように霆く。
――彼女は繕うことを好まない。それゆえ、日頃から飾り気のない素朴な意匠の虫籠しか用いないのだろう。調度を身の回りに置かないのは、装飾のために施された彩りが気に召さないためなのだろう。
勿論、それは本人においても言えることだった。彼女は煌びやかな衣を召さず、香を焚きしめることもせず、そして引眉も鉄漿もしなかった。ゆえに、眉はきりりと黒いし、歯は輝くように白い。紅を引かぬ唇の色は薄く、白粉を塗らぬ頬は翳ることもある。
だが、それらは、どうやら大納言の娘にはあるまじきことであるらしい。
男は女房たちの陰言に耳を欹てて、そのことを知った。繕うことをしないその姿が、女房たちの目にはよほど奇怪に見えるらしく、彼女は虫を好むことと同じか、或いはそれよりも悪しざまに、その見目のことを陰で囁かれることが多いようだった。
「……何事も繕うことは虚しいばかりだというのに、本地をもって生きることはかくも得難いのです」
「では、その枝をお与えください」
男は腕をまくり上げて露わにした。
「枝の先でこの腕を刺します。血が流れ、穢れに触れれば、婚礼は行われません」
なぜなら、穢れに触れた貴人は、余人と接することを禁じられるからだ。彼女はそれゆえに触穢を望んでいるのではないか。男は先刻までそう考えていたのである。
このまま縁談が進めば、彼女に求められるのは、虫を愛でることを止め、衣と化粧で目を繕うことである。ありのままに生きることは、もうない。だが、大納言の娘である以上、やがて縁談が避け得ないことは彼女もわかっていたはずだ。ゆえに、この時のために何年も前から骸を隠し集めていたのではあるまいか。それが男の考えだった。
しかし、部屋からは虫籠が一つもなくなっていた。それで、男は二転した末に確信した。その考えも過っていたことを知った。骸の行方はいよいよわからない。そこで、男は骸によらず、ほかの手立てで触穢とすることを目論んだのである。
しかし、彼女は再び首を横に振った。
「面白いことを考えるものです。されど、穢れに触れたとて、いつまでも謹慎が続くわけではありません。幾日か幾十日かことを遅らせるだけでしょう」
「では、その間にお逃げください。いえ――」
男は言い直す。
「ともに逃げてください。京からなるべく離れた地へ、ともにまいらせてください」
「おや、頼もしい。遠国に寄る辺があるのですか」
「そ、それは……そう、西方です。西国のことをお調べになっていたのは、かような時に備えてのことではないのですか」
彼女はやはり首を横に振る。
「この邸のほかに寄る辺はありません。邸の外へ出たこともないのですから」
男の言葉は続かなかった。鼻の奥がつんと痛む。
何もできないことが悔しかった。だが、それよりも、彼女の声がどこまでも穏やかで、自らの行く末を何もかも受け入れているようであることが悲しくてたまらなかった。
「此度のことが終われば、松来は尼寺へ行くそうです。主の本意に背き、自らの恣にしたことを許されようとは思わないと言って。たとえ我が身を抛ってでも、此度のことを相成らせる所存だと口上を聞かされました。ついぞわかり合うことはできませんでしたが、よい女房に恵まれたものです」
「まことに――まことにそれでいいのですか――まことに」
男は力なく言った。そして、ついに骸の行方を知った。
彼女は蛹をそっと抓み上げる。あたりは薄暗かったが、男はもう随分と彼女の近くにいた。だから、彼女がその時、微笑みを見せていたことまで具に憶えている。その数瞬のうちに起きたことを、男は死ぬまで忘れないだろう。
彼女はそれを口許へ運び、音もなくゆっくりと飲み込んだ。
骸が消えていくさまに、男はしばし呆けたように固まる。彼女のしたことが、すぐには理解できなかったのだ。
「――さあ、もっと近くへ」
低く澄んだ声が言う。だが、男の足は動かなかった。聞き損じたと思ったのか、彼女が繰り返してもう一度言う。それでも男は止まったままである。その時、ひときわ大きい雷鳴が、稲光とともに轟かなければいつまでそうしていたか知れない。
男はそれこそ稲子のように跳ね、部屋を飛び出した。
考えてのことではない。男はとっさに駆けていた。全身を雨に打たせながら、邸を抜ける。家々の軒端から桶を返したような雨垂れが注ぐ道を幾度も転ぶ。帰り着く頃には体が霜のように冷え切っていた。気づけば震えが止まらなかった。
その夜から病を得て、男は数日にわたり熱にうなされた。
以来、彼女の生きた姿を見ることは二度となかった。
だから、これを再会と呼んでよいなら、久しいという言葉ではとても足りないほど長い歳月に隔たれたそれである。男は布袋の中身を見ながら、そう思った。
その長い歳月の始まりにおいて、男は病に臥せていた。よほど苦しんだためか、その間のことは何も憶えていない。だが、病の前後で明らかに変わったことが一つある。彼女の微笑みに対し、背筋がぞっと冷えるようになったことだ。
「久しいことです」
奥方も、婚礼より後の姫君と顔を合わせることは一度もなかったという。それでも訃音を聞きつけると、牛車をここまで進めさせた。荼毘の煙を望むためだろうと男は思っていたが、どうやらそのためだけではなかったようだ。
男は布袋を持て余しながら尋ねる。
「これは、どうしたのですか」
「伝手に頼んで持たせました」
やはり奥方が手を回したことらしい。だが、そうまでして求めたのはなぜなのか。男が訝ると、柔らかくおっとりとした声がぽつりと言った。
「きっと、あの聡明さに惹かれていたのです」
山際が白く霞み始めている。
夜が微睡んでいるかのようだった。
「……いえ、とある遠国の為来をふと思い出したものですから。西方では、故人にならうべきところがあれば、残された者に骨を配ると聞いたことがあります」
西方における荼毘の為来。
それはどのような、と男は尋ねる。
「ええ、その為来によれば、故人が剛の者ならばその武勇に、学のある者ならばその才に、皆から慕われる者ならばその人柄に、そして、聡明な者ならばその聡明さにあやかることができるそうです。血肉には御霊が宿るものですからね」
男は布袋から中身を掌に取り出した。そう言われると、この小さな骨の一片が不思議な力を放っているように思えてくる。
「では、これを持っていれば、聡明になれるのですね」
「いえ、持っているだけではいけません。自らの中に取り入れなければ」
取り入れるとはどういうことですか、と男は尋ねる。
柔らかくおっとりとした声が言う。
「言葉のままですよ」
「骨を食むのです」
途端、男は足元が覚束なくなるほどの動揺を覚えた。
彼女はその西方の為来を書で読んで知っていたという。そして、男はかつて彼女が毛虫の骸を食むところを見た。いや、その血肉を取り入れる姿を見たのである。あれがあの一度きりのことだったとは思えない。骸の山は彼女の腹の中に消えたのだろう。
――彼女はずっと毛虫にあやかりたかったのではないか。
――ありのままに生きることの得難さが彼女にそうさせたのではないか。
だとすれば、いつも毛虫を見て微笑みを浮かべる彼女の心には、どのような思いが渦巻いていたのだろう。勿論、男には推し量ることもできない。
だが、それでも一つだけたしかなことがある。それは、彼女がその微笑みを邸に集う男童にも等しく向けていたことだ。男はかつてその所以を彼女に尋ねた。その時の記憶が蘇り、ああ、そうか、と男は思う。
彼女があやかりたいと願ったのは毛虫だけではなかったということだ。
牛は寝入ったように静まっている。もう先刻のように、男を諫めるように鳴くことはなかった。だから、目を閉じると、忽ちのうちに彼女の微笑む姿が浮かぶ。
案の定、その微笑みに男の背筋はぞっと冷たくなる。
それはきっと毛虫が鳥を悚れる心に似ていた。
「夜が明けますね」
簾の向こうから声がして、男は目蓋を開く。
朝朗の空に、煙はもう影も見えない。山際の雲が紅梅色に染まっていた。目の奥に蝶の幻がよぎり、やがてそれはあの雨の日に見た彼女の姿と重なる。
婚礼を目前に控えた彼女に取り乱す様子はなかった。だが、本当に心から穏やかで、すべてを受け入れていたなら、毛虫を食むことはなかっただろう。そう感じながら、男の指は引き寄せられるように掌の上からそれを抓み上げていた。
祈るような思いで、その骨の一片を口へ運ぶ。
消えない苦みが、ざらりと舌の上に残った。